考えなければならないのははどんなとき?

昨日、寝るあいだ、布団の中で考え事をしていた。

自分一人で考えているときは、途中で何を考えていたのかを忘れてしまう。こうして書いているときもそうなのだが。途中でやめてしまうのは、考えていることにあまり興味がないからだろう。

興味がないから考えない。考えるのをやめてしまう。自分が考えるのをやめてしまうのはそんな単純な理由であるようだ。考えているうちに、疲れて眠っていた。

考えている間は、眠れずに寝返りを打っていたのだが、次第に体が痛くなってきた。そのときに、「体を痛めてまで考えるべきだろうか」と思った。その考えが頭に上ったとき、うまく眠れた。それが、わたしの出した答えだろう。


起きているあいだから布団の中まで、考えていたことは「考えなければならないときはどんなときか?」という問題だった。

自分が一番、これはいけないと思っている状態は「自分が正しいと思っているのだから正しい」というものだ。

例えば、子供が自分が欲しいと思っているおもちゃを買ってもらわないときに泣く。子供にとっては、おもちゃを買ってもらうことは自分にとって「いいこと」だと思っている。しかし、親にとっては「欲しいと思ったものをなんでも買う」というのはいいことではない。でも、子供は自分が思っている「いいこと」をしてもらえないと思ってしまう。だから、泣く。

自分の思っている正しいことや、いいことが本当に正しいかどうかはわからない。まあ、それは納得できる。ゲームが好きだからと言って、一日中ゲームするのはどうかと思う。好きな食べ物を食べ続けていれば、それで幸せかというと違う。健康に悪いものばかり食べていたら、体を壊す。「好きなもん食べて、飲んでるんだからいいだろ」というのは、そんなにいいことではなさそうに思える。

それで、自分が興味があるのは「好きなもん食べて、飲んでるんだからいいだろ」という状態から、どうやって脱出することができるか、ということだ。

それはかなり難しいのではないかと思っている。

なぜなら、「好きなもん食べて、飲んでるんだからいいだろ」と言った本人は本当に「いいだろ」と思っていることが多いからだ。

つまり、「俺は酒を飲みすぎかもしれない」とか、自分を疑ったり、迷ったりしない。よって、自分にとって本当はよくないことをしていることに、気が付かない可能性がある。

その、自分で自分の信念を疑うことができないという状態はとても危険に思える。

そのために、健康診断とか、うるさくいう周りの人たちは大事だと言える。お医者さんに言われて初めて、「酒を飲みすぎている」と気がつく。

好きなものを食べる、というたわいのない例を出したが、それ以外の場合だったらどうだろう? 自分は書くことが好きで、毎日書いているのだが、書き方を間違ってはいないだろうか? あるいは、次の選挙に行く時とか、人間関係で悩んだ時にくだす決断とか、どうすればいいのだろう? 自分一人だけでうまく決められるか、自信がない。

もちろん、この悩みに共感する必要はないと思える。「なんとなくやっていればいいじゃん」という、考え方もある。そういう人は最初に書いた通り、興味がないのだと思う。

考えることは別に、えらいことでもなんでもないから、興味がないことを無理して考える必要はない。むしろ、なんとなく「考えなきゃいけない」と焦って、適当に考えてしまう方があぶない。


考えるとは、自分が思っていることが本当にいいことなのかを確認する作業と言える。「好きなものを食べてればいい」と思っている人は、「本当にそうか?」とそれを疑う。「おもちゃが欲しい」と思っている子供は、「本当にそうかな?」とそれを疑う。

大抵のことは、周りの人や健康診断で自分が間違っていると気がつくことも多い。でも、自分一人で考えなければいけない時もある。そういうときは、自分で自分を疑わないといけないだろう。


今まで、考えることといえば、自分の考えを補強することだと思っていた。自分の考えていることを「正しいこと」に当てはめて持っていく作業に思っていた。だから、「おもちゃが欲しい」と思ったら、「どうしたら買ってもらえるか」という方向に考えていた。お母さんの言うことや、お小遣いの計算などをして「おもちゃが欲しい」をどうにかして実行したいと思った。

けれど、自分の考えを疑う「考える」は、「おもちゃを欲しい」と思ったことが本当に良いのかどうかを疑うことだ。

そんなことをしていたら、いつまで経ってもおもちゃは買えない気がする。おもちゃなら良いけど、仕事や勉強だったらどうだろうか。これは、本当に興味がないと考えられない。



一方で、なんとなく社会には「考えなければならない」という圧力もある。「考えなさい」ともよく言われる。また、「社会は変化する」とか「不安定な社会」とか言われるのも結局は、「自分で考えないと痛い目にあうよ」ということなのだと思う。

なぜ、広告や本などで、「社会は変化する」とか「不安定な社会」みたいな言葉がよく書かれるのだろう? たぶん広告の方は、お金を儲けることを目的にしているから、それを書くと多くの人が興味を持ったり、必要だと思うと考えているのだと思う。

そのやり方が、うまくいくパターンも想像できる。

「考えなさい」というやり方で考え始めた人は、迷ったり、悩んだりすることが多い。先程の「自分を疑う」パターンの考え方をしなければならないからだ。

「考えなさい」と言われるが、言われた人はその前から自分の考えを持っていることが多い。それなのに、「考えなさい」と言われてしまうと、自分の考えが正しいのかよく分からなくなる。

あるいは、本当は興味がないのに「考えなさい」と言われた人は、「考えなきゃいけないのかなぁ」と悩むこともある。

わたしの場合は、興味のない問題について考えていると、自分の考えが信用できない感じがしてくる。それに、興味がないのに繰り返し「考えなさい」と言われると考えるのをやめたくなる。

だから、自分で考えるのをやめて、自分よりも信用できそうで、考えてそうな人の考えを借りることになる。だから、「不安定な社会を生き抜く方法」とか書いてある本を読むハメになる。広告に乗せられてしまうわけだ。

しかし、それは考えるのをやめているだけで、ちゃんと考えるならば、「不安定な社会を生き抜く方法」を読むことは本当に良いことなのか、とか、本当に社会は不安定なのか、とか考えるべきなのかもしれない。

「考えなさい」という圧力がうっとうしいと思ってしまうと、結果として考えなくなってしまうのは、皮肉なものだと思う。だから、あまり興味がない人に「考えよう!」とふっかけるのは必要ないし、有害かもしれない。その人をより、問題から遠ざけることになる。


さらに、言うならば「興味がない」という状態もある意味では、問題かもしれない。環境問題とか、社会問題は「興味がない」人によって起こされている。そうなったら、「どうやったら興味がない問題を考えられるか?」とややこしいことを考えなければいけない。そもそも、「どうやったら興味がない問題を考えられるか?」という問題に興味がある人はとても少ない気がするが……


というわけで、色々と考えてしまっていたわたしは、「いついかなる時にも考えることはある」と思って、布団の中でも考えようとしていたのだった。

でも、考えていると眠れなくなって、体が痛くなった。そして最後には眠ってしまった。

本当なら「プラスチックのゴミを減らす方法」とか、「不安定な社会を生き抜く方法」とか、考えるべきことはたくさんある。

たくさんあるのにもかかわらず、それらを考えている暇も、時間もない。何より、体がもたない。本気で考えてしまったら、生きていられない。

だから、それらを考えずにこの文章を書いていることに、抵抗がないわけではない。「ないわけではない」どころではなく、本当に書いてても良いのか、確信が持てない。だから、「書きながら考える」といってもどこかで、考えるのをやめて「書くこと」に飛び込まなければならない。様々な問題に目をつぶって、考えている。

何かについて考えることは、別の何かを考えないことでもある。

だから、考えることは別に偉くもなんともない。考えた方がいいことはあるかもしれないが、考えないといけないことはひとつもない。それに、考えることで偉くなることもできない。考えに夢中になればなるほど、偉さから遠ざかっていく気がする。

とすると、何も考えずに、何も迷わずに、いろんなことをすらすらできる人がなんだがすごい人のように思えてくる……果たしてそれでいいのだろうか?

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!