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うつむいて歩こう

日常がうごいているのだから、私たちもうごいていかなければならない。今までわからなかったことをわかるようになり、今まで通り過ぎていたものをもう一度発見する。目に見えないものの質感をしずかに感じ取り、目に見えないまま誰かと交換し合う。そして、ひとりでまた明日のことを少し考える。

うごいている日常の中で、立ち止まってしまい、取り残されたような気分になる時は、たいてい自分の周りのものが輝きを失って見える時だ。そんな時は、どこを散歩しても心が安らわない。どんな本を読んでも、どんな物語を語られても慰めにはならない。

そんな時、私はそもそも自分を慰めたいのだろうか。感動できないことに、日常がつまらないと思えてしまうことを、慰めたいのだろうか。

慰めたところで、どこに慰めを求めればいいのかわからない。この世界以外に、逃避できる場所はない。どれだけ逃げようとしても、自分からは逃げられない。だから、それ以外のものに目を向けたとしても、何かが変わるようには思えない。

本当に感動できることを探していた。感動する前から、どうにか自分の冷め切ってしまった心をもう一度元に戻してくれるものを探していた。いつも、心の底から泣きたいと思っているし、心の底から笑いたいと思っている。心のどこに「底」があるのかわからないけれど。

同時に、単純に感動したいと思っている自分の単純さが不安になる。「底」が知れてしまった心はどうすればいいのだろう。また、同じ方法で泣いたり笑ったりすればいいのだろうか。昨日と同じ方法で、今日と同じ方法で、これからもずっと変わらず、揺れ動いていくことを望むのだろうか。

おそらく、感動したいと思って感動することも、感動するつもりもなくぼんやりと歩いていくことも、どちらも間違っている。感動は、どこからか祝福のようにやってくるもので、自分から求めるものではない。どうせ、何もないと絶望に浸ることでもない。

だから、いつも心に隙間を作っておく。役に立つかわからない、何も置かれない場所を。いつかくる感動のために。とっ散らかっている、思い出とかとりあえず描かされている未来予想図とかを脇によけて。心の一番日当たりの良い場所を、窓を開けて風が通るままにしておく。

うつむいて歩こう。道端に咲いている花を見つけられるように。涙がちゃんと土に帰っていくように。涙なんか流さない、と強がる自分から自由になるために。この世界にちゃんと感動するために。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!