あたらしい、やわらかい、書きながら考えるための言葉を考えたい

新しい、柔軟な書きながら考える文体を考えてみる

タイトルをいつもの書き方で言いかえるとこうなる。ひさしぶりに、書きながら考えることをやってみた。すると、自分がどんな言葉で考えているのかがよくわかった。

なんとなく、言葉が体の先にのびていて、ゴツゴツしている。先の尖ったブーツを履いているとか、肩に棘があるジャケットを着ているとか、そんな感じがした。自分の動きに余計なものが加わっていて、傷つけたくないものや、迷惑をかけたくないものにも、余計なことをしてしまっている感じがした。

どうしてそんなふうに感じたのだろうか?

そもそも、漢字が多い。言葉が多い。考えることと、書くことのバランスがよくない。

いままでの自分は、考えることは書くことによって生まれると思っていた。つまり、書かなければ考えることは生まれない。それはよく考えるとおかしい。書かなくたって、考えることはできる。ぼーっとしているときにも考えることはある。そもそも、書きたくなったのは書いていないときに「書きたい」と考えたからとも言える。

その考え方で、書いていたから、自分は考えることの確かさやもっともらしさを言葉に求めてしまったのだろう。どういうことか、具体的にいうと「いかにも考えている」ような言葉を書いたり、難しくて意味のわからない言葉を見て「ああ考えているな」と思ったりしていたということだ。

しかし、それは考えているのではなく、「考えたと思っている」だけではないだろうか。それは書く前からあるはずの「考えること」を忘れて、書いた後に生まれる「考えたぞ」みたいな感じを味わっているだけではないのだろうか。

それは、ちゃんと「書きながら考える」ことではないんじゃないか?

書きながらそう思ったし、その疑問こそ、書きながら考えて思ったことだ。

まずは、自分の「考え」からはみ出ている言葉を小さくすることから始めたいと思う。だから、自分で訳のわからない言葉を書いたり、意味がよくわからないままの言葉を勢いに任せて書くことをやめてみる。

ただ、「書きながら考える」ことをしたい。考えた結果どうなるとか、その考えが素晴らしいものかとか、は考えなくていい。ただ考えたい。考えることは自由であるはずだから、きっと結果が出ないこともある。答えも出ないこともある。まとまらずに終わることもある。それを考える前から「こうしたい」とか、「こうあるべき」と思うと自由に考えることはできない。

書くことになれていなかったし、よくわからなかったから自信がなかったのだろう。考えるということもよくわかっていなかった。

そんな自分には「書いたら考えることになる」ということは大きな支えになっていた。実際、書いたら文章が残る。読んでくれる人から反応も返ってくる。だんだんと書くことが自分の体に身についてくる。きっとそれはいいことなのだと思う。

そのうち、書くことも、考えることもわかってきた。確かに「書いたら考えることになる」というのは正しいこともある。しかし、自分で思っていないことや、考えていないことまで無理に書くのはおかしい。そうなると、「書いたら考えることになる」というのはいつも正しいわけではないことがわかってくる。自分の身の丈に合わない言葉はある。

自分の身の丈に合う言葉とはどんな言葉だろうか。たぶん、誰にでもわかる言葉で書くことだ。誰にでもわかるとは、誰に聞かれても自分で説明できるということ。書いたときの気持ちや、考えをちゃんと反省できるということ。何もかもが「わかっている」必要はない。「わからない」なら「わからない」と書いていいと思う。しかし、「わからない」ものを「わかっているかのように」書くことはあまりよくない。「どうしてそう書いたのですか?」と聞かれてもおそらくうまく答えられないからだ。

ということは、書いても考えることは終わらない文章がいい。文章のあるところが疑問に思ったり、不思議に思ったりしたら、すぐに考え始めることができる。なぜ自分はそう書いたのか、なぜその言葉を使ったのか、自分の「書いた」感触をもとにして考え始めることができるのがいい。それこそ、身の丈に合っている。自分の部屋や、体のように自分で考えられる分だけ、考えたい。よくわからない飾りや、必要ないと思ったものは無理に書かなくていい。それについて聞かれても、自分で答えることはできないし、考えは深まらないからだ。

とはいえ、今までの書き方を反省して「書きながら考える」ことについて、新しく考え始めることができた。今まで書いてきたものを「自分が書いてきたもの」として、受け止めることができたからだと思う。なぜ、自分はそう書いてしまったのか。その問いに答える責任が自分にあると思えたからだろう。だから、新しい文章を、今まで書いてきたものの上に積み上げることができる。

適当に書いてきたものだし、どうしてそう書いてしまったのかわからない。自分にもそういう文章がある。もしかしたら、ほとんどそうかもしれない。でも、だからと言ってくだらないものだとは思わない。くだらないから消してしまってもいいと思ったこともある。なぜなら、その場の「書いた」という感触だけが楽しかったらそれでいいや、と思ったからだ。でも、「あの頃の自分はどうしてそう書いたのだろう?」と振り返ってみると、いくらでも考えることはある。むしろ、それについて考えることができるのは、自分しかいないのではないだろうか。それに、自分こそが、自分が書いてきたものや、考え続けてきたものに一番責任がある。

自分で自分が書いたものの答えを探す。それは楽しそうで、やりがいがある。この文章だって、いつかの自分が考える材料になる。


別にまとめる必要はないと思うけど、まとめると、なるべく簡単な言葉を使うようにする。ちょっと不自由なぐらいがちょうどいい。もっと、軽く動きたいと思ったら後から調整するのがいい。言葉の方が、考えることより先走ると、思わぬ動きをしていることがあるから。書きながら考えるなら、言葉は少ない方がいい。簡単な方がいい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!