ありのままが

障がいをもつ人たちの「空」の世界。(『ありのままがあるところ』 ④)

今朝まで、障がいをもつ人たちの宿泊施設で夜勤のバイトをし、それから泥のように眠った。

先週の初出勤の後も同じように寝た。とても深く、心地のよい眠りで、目覚めた後には憑き物が落ちたような感じがした。

あまりにもエネルギーの違うところを行き来する時、人は眠くなると聞いたことがある。それで『ありのままがあるところ』のこの一節を思い出した。

 空は見えない世界であり現実を超越している透明な世界。色は現実主義の世界。私たちは色を、彼らは空を見る。
(福森伸『ありのままがあるところ』P.197)

「彼ら」というのは、障がいをもつ人たちのことだ。福森さんは、障がい者たちが色即是空の「空」の世界にいると解釈する。

たとえば、人が葛藤することを、福森さんはこう描写する。

 現実は内なる声(空)である。自分の考えを押し通すと、非常識と批判されたり嫌われたりする。逆に外からの声(色)に影響を受け過ぎて、自分の考えを表現できないストレスに悩まされることもある。それは重要な自己決定において私たちの前に立ちはだかる。
 二つの声が一致する時は良いのだが、相反すると迷いや不安が生じ、人は葛藤する。どちらかの声を実行しようとすれば、もうひとつの声がそれを止めようとする。自分の考えに自信がなくなりどうすれば良いか悩んでしまうのである。しかし、この葛藤こそが自分の人生を作り上げているともやはり考えられる。(同書 P.200)

一方、障がいをもつ人たちの葛藤は、

それに比べて、彼らの葛藤は瞬間に起きて、瞬時に消えていく感じがする。鬱屈せず、その場でエネルギーを発散するので後を引かない。(同書 P.201)

夜勤明けの僕には、確かにそうかもしれないな、と思える。
というのも、彼らの世界には、それほど複雑な葛藤が存在しないように見えるからだ。

カラオケに行きすぎて喉が痛い。足が痛い。家族に会えなくて寂しい。

うまくコミュニケーションがとれない人もいるので、その内実は計り知れないが、いずれにしても、悩みや葛藤が「瞬間に起きて、瞬時に消えていく感じがする」という雰囲気がある。わっ、と何かを表出したかと思えば、次の瞬間には微笑みながらドラマを観ていたりする。

 彼らの行動を見て、このように解釈できるようになってきたのは、私たちが現実だと思っている空間は、極めて限定された常識に区切られているのだと理解するようになったからだ。彼らは強度のある「空」の世界を見ているが、それはこちらが見ている常識に基づいた現実主義の世界とはまるで違う。(同書 P.201)

そうだなあ、と思う。
僕や僕のまわりの人たちが悩んでいることを、彼らは理解しない。理解しないのだから、その悩みは彼らの世界には存在しない。そういう世界があることに触れると、自分たちは思考を駆使して、いったい何をしているのだろうか?と思わされる。

彼らといると、あまり深くものを考えることができなくなるのだけれど、それはきっと彼らがとてもシンプルでナチュラルだからかもしれない。

 知恵は物事の比較を可能にする。比べることでより深く物事を知っていくこともできる。
 と同時に、他人と自分を引き比べて競争心を掻き立てられ、どんどん自信を失っていくことにもなる。今の時代は情報が溢れているせいで比較の目盛りも細かくなっており、それだけ生きる上での自信を失っていく方に引っ張られやすくなっている。(同書 P.202)
 障がいが重度になればなるほど知恵や知識よりも生きること、生きていくことに関わる本能が全面に出てくる。そのため彼らには他人と協調しようという素振りはあまりないように見える。道徳心から見れば、その態度は冷たく見えるけれど、本人は意地悪をしているわけではない。なぜなら意地悪は知恵をすごく使わないとできないからだ、だから、「他人に配慮する能力がない」のではなく「ひたすら自分のことだけに没頭できる能力」を持っているという方が正しい。徹底して自分のことしか行わない姿は、天然の自己中心だからだんだんと素敵に見えてくる。(同書 P.202)

ここ数日、僕は楽器がうまくなりたい気持ちをこじらせていたのだけれど、

これも彼らには全く理解のできないことだろう。
そして、そういう彼らといることが(その突飛な行動に驚かされたり、怖がったりしつつ)なんだか心地いい。

 思考からではなく、突発的で衝動的に始まる出来事。彼らはそうした偶然の連続性、つまり「自然な揺れ」の中で生きているところがある。比べて私たちは意図的であり、偶然には否定的だ。過去の体験から未来を予測したいし、再現性のある関係に持ち込みたい。それだけ何も考えずに行うことを不安に感じている。しかし、時に偶然性そのものが形になった時に出会うと、この上なく胸踊る。それはミラクルが起きたからだ。(同書 P.203)

彼らの「ナチュラル」から発する衝動的な行為を、僕は「ハプニング」だと感じて怖れる。けれど、同じことを「ミラクル」と捉えることもできる。

 障がい者本人の意向に気持ちを傾け、本人の自己実現に向けて支援をすることを本業とする私たちは、障がい者の「自然な揺れ」に対応し、本人を支援する立場にいる。支援という介入によって、「揺れ」を止めることに力を注ぐより、むしろ自分自身も揺れながら「自然な揺れ」に心地よく乗ることはできないだろうか?そうすれば人間らしさの尊重、いわゆるヒューマニズムが展開されていくのではないか。(同書 P.203)

たった二度の邂逅で「人間らしさ」という定義がグラついている。それが面白い。

このまま彼らの「自然な揺れ」についていったなら、どうなってしまうのだろう。

でもその「揺れ」はハンパじゃない。そういえば、お風呂でハワイの大波のようにものすごい音を立てて入浴している人がいたけれど、あんな感じのものすごい波乗りになるのだと思う。

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