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紀さん、いいことゆってる。

いま読んでいる若松英輔さんの『生きる哲学』

の冒頭に、『古今和歌集』の序文「仮名序」が引用されている。

 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

(訳:和歌は、人の心に宿る思いを種子として、無数の言葉となり、世に顕われる。世の人は心に思うこと、見ること、聞くことを言葉にせずにはいられない。しかし、そうして語るのは言語をもった人間ばかりではない。「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」それらを聞けば、生きとし生けるもの、いずれか「歌」を詠まないものがあろうか、と思われてくる。そればかりか、物理的な力を用いることなく天地を動かすのも、眼に見えない神々や精霊の心に呼びかけるのも、情愛に生きる男女の心を通じ合わせるのも、さらに勇猛な武士の心を深く慰めるのも「歌」である。)(P.13-14)

書いたのは、かの有名な紀貫之さん。「ここでの『歌』は単に五七五七七の三十一文字を指すのではない。『歌』の姿をした意味の塊を指している」と若松さんはいう。

それにこんなことも言っている。

 私たちは日常生活のさまざまなところで意味を感じている。言語以外の呼びかけにも意味を感じることは少なくない。
 朝、日が昇るのを見て美しいと思う。それにとどまらず、ある充実を感じる。あるいは深い畏敬の念に包まれる人もいるかもしれない。雨のなかにたたずむとき、静かな大地のうごめきを感じる者もいるだろう。鳥のさえずり、川の流れ、私たちは万物の動きに意味を感じることができる。逆の言い方をすれば、世界は人間に読み解かれるのを待っているようにさまざまな意味を語っている。(P.13)

これは僕が『あなたのうた』『作曲事始』『歌い手冥利』といった㐧二音楽室の仕事を通じて、あるいは『listen.』『声で逢いましょう』といった場で人の話をきくことを通じて、触れようとしている領域だ。

言葉よりも奥、そこにある意味に触れ、その層で交流したい。
僕はそう思っている。

人が言葉をつかって話すとき、人はそのことが言いたいのではない。僕はそう思っている。言葉は読み解かれる意味まで道案内をしてくれるビークル(乗り物)にすぎない。言の葉には、言の幹も根もある。そこまでの道筋を言葉は示すのだと思う。

幹や根となると、もはや非言語の世界になるのだと思う。
作家の吉本隆明さんがこう言っているように。

これは、僕が勝手に
自分を納得させた考え方なんですが、
言葉というものの根幹的な部分は
なにかといったら、
沈黙だと思うんです。

言葉というのはオマケです。
沈黙に言葉という部分が
くっついているようなもんだ 
と解釈すれば、僕は納得します。

だいたい、言葉として発していなくても、
口の中でむにゃむにゃ言うこともあるし、
人に聞こえない言葉で
言ったりしてることがあります。
そういう「人に言わないで発している言葉」が、
人間のいちばん幹となる部分で、
いちばん重要なところです。

(略)

人から見える言葉は、
「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」
なんです。
いいにしろ悪いにしろ、「その人」とはちがいます。
(ほぼ日刊イトイ新聞『ダーリンコラム』〜沈黙の発見より)

だからこそ沈黙をたっぷり分かち合って、言葉をたどってゆくと、言の幹や根を伝って「その人」に会えるのだと思う。ちょうど紀さんが「人の心を種として」といった種子の部分にふれることで。

先の『生きる哲学』には、こんなことも書いてあった。

私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉になるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律が、コトバの世界へと導いてくれることもあるだろう。

僕が音楽をやり、文章を書き、親しい人たちとおしゃべりをするのは、まさしくここでいう「コトバ」= 読み解かれるのを待っている世界を知るためだ。

そのことを昔の人は「歌」と呼んだ。
「わかるぜー、紀さん」と思いながら、905年ごろにつくられた『古今和歌集』に2020年の僕が萌えている。

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