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二次ってやつが、厄介なんすよね。

「こちらの利用者さんは、二次障害で統合失調をもっておられます。」

と、障がい者施設のスタッフミーティングで聞いたとき、僕は「二次」という言葉に反応した。

ちょうど僕は先週、足を痛めていた。
擦りむけて薄くなった皮にばい菌が入って二次感染したのだ。

大したことないだろうと高をくくっていたのだけれど、その後どんどん痛くなり、苦手だった病院に行く羽目に。楽しみにしていたディズニーランドも車椅子で回ることになった。

車椅子

のは、かえって楽しかったからよかったのだけれど、その病院ではじめて聞いたのが「二次感染」という言葉だった。もともとの傷が二次になってさらに悪化してしまう。お医者さんによると僕が二次化させてしまった原因は「疲れ」だったらしい。

二次は大変である。先の利用者さんにしても一次のそれは一般的な知的障がいにすぎない。けれど、それをご本人や周りが気に病んだりすると二次障害というかたちで悪化する。

二次被害という言葉もある。これは犯罪などの被害にあった方がマスコミの取材に応じたり、裁判で証言したりするために辛い出来事について語り、傷をえぐってしまうようなことを言う。

けがと障がいと犯罪被害。これらの一次と二次の関係は、僕たちの暮らしの中にも見受けられる。それはしばしば「こじらせる」という言い方をされる。

夢を、悩みを、劣等感を、不安を、僕らはいろんなものをこじらせる。そうすると、そもそもの夢や悩みや劣等感や不安よりも厄介で手に負えないものになってしまう。人を振り回し、迷惑をかけ、時には関係を断つほどのものになることもある。

逆にその二次化したものを丁寧に聞いてもらったり、やさしくされたり、いたわられたりすると、暴走していたそれは一次のサイズに戻っていく。痛みで大暴れしていたモンスターのようなそれが、実は「さみしい」というただ一つの気持ちからできていたりもする。

「人はみな病んでいる」といったのは、おしゃかさまだったか。だとしたら、僕らが共に暮らしているのは、その一次的な病を二次化させないように、互いに助け合っていくためかもしれない。

僕らはいつだってなにかが足りない。でも、それは気に病んで二次化し苦しむためのものではなく、それを補うだれかと出会うための欠損なのだと思いたい。

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