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僕が空を見る時、君は草を見ている。

昨日書いた記事に、

こんなことを書いた。

道中、奥さんと友達は土に生えている草のことを話題にしていた。その名を呼び、食べられるとか食べられないとか言って、持参していたビニル袋にいくつか入れたりしている。

僕はといえば、草は「草」としか思えないので、代わりに関心のある空や雲や鳥を見ていた。ツバメがたくさん飛んでいて、うちの周りにいる鳥たちより断然速くてカッコ良かった。

このときの「草」情報の "入ってこなっぷり" について考えている。
奥さんと友達はあんなにキャイキャイ楽しそうだったのに、僕にはまったく響かなかった。それで空ばかり見ていたあの時間を。

でも、逆の立場になることもある。たとえばプロ野球のことは奥さんには響かない。ゲームも割とそうだ。音楽のことは多少響くけれど、その響き方はたぶんかなり違う。僕は「ないなんて考えられない」くらいだけれど、奥さんにとっては「なくても困らない」ものだったりする。

この違いってすごいことに思えて。だって、同じように生きているのに「あると認識されるもの」と「ないと認識されるもの」が違ってしまうわけだから。

僕にとって草は「草」で、言っちゃ悪いがなきに等しいものだ。でも奥さんにとっては名前があって味も分かっていて、料理のしかたまで思いついたりする。

僕が空をみるとき、君は草を見ている。

同じ景色を見ていても、僕と奥さんではどこを見ているかが違うし、奥行きもまったく違う。視覚的には同じ景色でも、僕には平面に、奥さんには立体的に見えていることは大いにありうるし、当然、その世界で体験することも変わってくる。

そして、こうも思う。
僕はきっと、この世界にはっきりと存在しているのに一切体験しないままで終わるものがたくさんあるのだろう、と。

それはすこし寂しい気がするが、草の響かなさって努力でどうにかできるもんでもない。プロ野球の好きさが努力して身につけたものでないように。

そんなふうに自分の意志や努力で身につけたものではないものに大いに影響されて、僕らは毎日を生きている。君と僕とで同じ世界に生きていると錯覚しながら。

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