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こじれとる。

新年。ここ数年、頭を悩ませていたことにある程度、見通しがついて「ようし、今年こそは楽器が弾けるようになろう」と意気揚々と動き始めたのだけれど、昨日すっかりふさぎ込んでしまった。

奥さんに話を聞いてもらうも、理由がわからない。落ち込んで仕方がないので、結局、早めに寝ることにした。今日はわりと元気なので、それでよかったんだと思う。

わかったことは、何らかの理由で「こじれとる」ということだ。

人のこじれというのは、他人からは簡単にほどけそうに見えるのに、なかなかほどけない。ほどきたい自分とほどきたくない(そのままの状態で痛い)自分とがせめぎ合ったりもしているし、実際、そこには様々な他者や情報の影響が見られる。

 とかく障がい者の自立に関して議論されても、「彼らはもともと自立している」ことが見落とされている。彼らの中には自分はこれでいいと最初から思っている人が多いからだ。
 むしろ、自立できていないのは「自分はまともだ」と思っている私たちの方だ。自分に何かしら不満を持っていて自信がない。その中身はと言えば、過剰な情報によってすぐに他人から影響を受け、感化されてしまい、たやすくぶれる。
(福森伸『ありのままがあるところ』P.112)

影響を受け、感化されてしまい、ぶれる。そんなふうにして自分の毛糸玉はできる。「どうしてそんなふうにこじらせることができるわけ?」と驚くような毛玉が、人生を前に進めることを妨げる。

昨日、厄年のことを書いたけれど、

もしかすると厄年というのは、自力でいろいろやっているうちに絡ませてしまった毛糸玉を「天」が数年かけてほどいてくれているのかもしれない。相応の痛みを伴いながら(というか、痛みがないと自らを変えようという気にならない)。

それにしても、ただ「楽器がうまくなりたい」というだけだったのに、これほど収拾がつかない反応や体感が噴き出してくるとは驚きだった。厄年が明けた新年に希望がもてる道筋を、と思ったのだけれど、早速、暗礁に乗り上げてしまった感じである。

 村上春樹は以下のようなことを述べている。
 「人はみんな病んでいる、というのが僕の基本的な世界観です。僕らはみんなその治癒を求めて生きているのです。あなたが誰かに治癒を求めようとすれば、あなたもまた誰かを治癒しなくてはなりません。僕らはその交換行為の中で”生きている”という実感を得るのです。多くの場合」
((福森伸『ありのままがあるところ』P.178)

「みんな病んでる 必死で生きてる」と『everybody goes』の中でミスチルも歌っていたけれど、僕らはそれぞれに自分が自分であることをこじらせていて、それを互いにほどきあっているのかもしれない。

実際これ、一人じゃほどけないっすもんね。。。

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