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短編小説『図書館でしか会えぬ君』

 久し振りすぎて図書カードすらなくしてしまった。
 市内の外れにある図書館の自動ドアをくぐった瞬間、二岡(におか)は唐突に気が付く。来るのは小学生以来だし、ひょっとしたら捨ててしまったかもしれない。一瞬回れ右して家に帰り探してみようか迷ったが、図書カードなんて学生証さえあれば簡単に作れるだろう――そう思い直し、建物の中へと入っていく。
 五月は意外と暑い日が多く、そして意外と雨の日も多い。今日は前者だった。まだ中旬であるにも関わらず気温は30℃を超えんかとばかりに上昇し、額に浮かぶ汗は不快感を象徴している。だからか室内は早くも冷房が効いていて、すこぶる気持ちが良かった。
 図書館は休日という事もあってそれなりに人がいる。全員が全員本を読んでいるわけではなく、長机が置かれているスペースでは子供達がカードゲームに興じているし、老人は新聞を読んでいる。彼らを尻目に二岡は中へと入っていく。
 カウンターを通りすぎ、文学コーナーへ。
 いくつも並んでいる本棚の前に立ち、並べられた小説の群れを意志のない目でボーッと眺める。
 お目当ての本があるわけではない。
 来たくて来たわけでもない。
 二岡の通う中学校では、明日から朝のホームルームで十分間読書を行う事になっている。活字で作られている本であれば何でも良く、各自思い思いの本を持ってきて教室で毎日十分間読書をし、定められた期限内で読んだ本で感想文を書くのだそうだ。友人の社(やしろ)はライトノベルを読むつもりらしい。自分には教室でラノベを読む勇気はない。
 と言って自分も社と同じオタクであるからして、自室には小説と呼べるものがラノベしかなかった。
「人間失格…」
 有名な小説を手に取り、すぐに本棚へと戻す。先程から数回違う本で同じ行動を繰り返している。二岡が生まれるよりもずっと前に書かれた文豪の名作達はしかし、二岡の心には引っ掛からない。少しキャッチーなものでないと読める気がしないが、推理小説には興味がないし、児童書は子供っぽい。自意識にまみれたオタク少年の判断が鈍りに鈍っていく。なんでもいいから早く決めなければ――そう思えば思うほどにドツボにはまっていく。
 もう観念してラノベを読むか。ブックカバーで隠せばわかるまい。
 邪悪な決心をしかけた時、二岡の視界に"黒"が入ってきた。
(……日曜なのに制服?)
"黒"は人間であり、少女だった。二岡の心の呟き通り、休日にも関わらず真っ黒なセーラー服を着ている。セーラー服だけではない。スカートも黒ければ履いているストッキングも黒。靴まで黒い。肌は澄んだように白いが、袖からはわずかしか手が出ていないのでほぼ首から上くらいしか肌を露出させていない。スカートの赤が異様に目立っている。
 しかして彼女は可愛かった。
 少なくとも、二岡が今まで見てきたどの女性よりも。

 彼女も二岡と同じく、本棚の前で小説を物色していた。二岡と違うのは本を何冊か抱えているという事。いつの間に隣にいたのかわからなかったが、彼女がこちらを気にする素振りはない。
「ん~と…」
 小さな声で独り言を呟いているのが何とも愛らしい。
 彼女が二岡の隣にいた時間はそう長くなかった。彼女はすぐに他の本棚に移ってしまったし、二岡は着いていく事もなくそこに取り残される。だって着いてったら気持ち悪いし――心の中の言い訳が虚しく響く。
「……」
 代わりに彼女が小説を取っていったあたりのポイントに移動する。彼女が取っていったのと同じ作品はなかったが、同じ作家の小説なら何冊か並んでいる。
 手頃そうな厚みの本を手に取る。
 なんて単純な人間だと自分でも思う。
 だが興味なんてそんなものなのかもしれない。自分のような中学生男子が読んでそうな小説と可愛い女の子が読んでそうな小説。どちらを読みたくなるかなんて明白ではなかろうか。
「……よし」
 何十分も立ち尽くしていたであろう本棚の前から、二岡は呪縛が解かれたかの如くとうとう立ち去った。歩きながらチラッと他の本棚に目を向けてみるが、あの子の姿は見えない。学校で見かけた事がないので他校の生徒である事は間違いない。第一、二岡の通う中学校の制服はブレザーだ。
 どこの学校の子だろう?
 考えながらカウンターに行き、本を置く。明日も来れば会えるだろうか。それとも、あの瞬間だけの出会いだったのだろうか。
 カウンターの向かいにいる司書のおばさんは言う。
「図書カードはお持ちでしょうか?」

🔖

 社築(やしろ・きずく)は教室では目立たないタイプの男だ。テストの成績はいつも良く、運動神経だって意外と悪くない。
 しかし、オタクである。
「そんなアニメみたいな女の子、いるわけないだろ」
 社は十分間読書の時間に本当にライトノベルを持ってきていて、カバーを着ける事もなく堂々と読んでいた。そんな彼を二岡は時々羨ましく感じる。本来周囲の目など気にする必要はないのだから。
「お前の心が産み出した幻想なんじゃないか?」
「ち、違うよ」
 そんなものを産み出すほど切迫されてはいないと思うが、それでも少し言い淀んでしまう。確かに彼女の格好は少し浮世離れしていた。可愛い女の子が日曜なのにセーラー服姿で、しかも全身黒ずくめ。
 現実感はあまりなかった。
 対して今は社と二人、休憩時間中にオタクとオタクで顔を突き合わせて喋っている。これは紛うことなき現実。
「見たと言っても一瞬だったんだろ?しかも喋ってもいない」
 社は二次元の文学少女が好きな男だ。半面、三次元の女には絶望している。オタクにありがちな疑心暗鬼にかられ、二岡の話も簡単には信用しようとしない。
「喋ってはいないけど……でも本当にアニメから出てきたような女の子だったんだよ」
「よしんばそうだったとしても、可愛い女の子には彼氏がいるからな」
「夢のない男だなぁ……」
 ひたすらに不毛ではあるが、男子中学生がする会話などほとんどこのようなものだ。
 二岡とて可愛い女の子を見かけたからといって即仲良くなれるとは思っちゃいない。それどころか話しかける事すら不可能だろう。自分のような男が話しかけたところで迷惑だとすら思う。でもオタク同士の会話なら何言っても自由ではないか。想像力は宇宙、無限大なのである。
「なるほど、一理あるかもな」
 現実論で二岡を諭していた社が路線を変え、
「黒ずくめの文学少女か…どんな特殊能力を持っているんだろう」
「特殊能力?」
 唐突なラノベ脳に反応が遅れる。
「だってお前、可愛い女の子が全身を黒で統一させてるんだぞ?特殊能力がないと考える方が失礼だろ」
「失礼なのかな?」
 そうだろ、と社は頷き。
「例えば黒…黒と言えば闇。闇の文学少女なら…」
「悪い人間の元に夜な夜なやってきてホラー小説の中に閉じ込めちゃうとか?」
 社が指を鳴らす。「それいいね」。
「ええとじゃあ……復讐したいと強く願ってる人の元に彼女は現れる。例えばいじめられてるとか。でいじめっ子の家に真夜中やってきて、そいつを猟奇的殺人犯に追いかけられる小説に閉じ込めちゃうの」
 考えながら喋っているうちにだんだんと調子が上がってきた。こういう類いの話は子供の頃から好きで、小説の真似事のようなものもたまに大学ノートに書いている。
「それだったらさ」社が興奮したような表情で身を乗り出し、「そいつに依頼者と同じような体験をさせるんなら、本の中で死んじゃう回と反省して生還できる回とでまちまちだったら面白いな!」
 確かにそうだ。二岡は激しく頷く。
「毎回死んでも、毎回死ななくても面白くないもんね」
「タイトルは『夜の文学少女』!」
「そのまんまじゃん」
 二人して笑う。あの女の子が夜の文学少女でない事ぐらい二岡も社もわかっているが、おそらく二度と会う事もないだろう美少女であれこれ想像するのは、変態的ではあるが楽しいものだった。
 ふと思い付く。
「書いてみようかな」
「いいじゃん。書いたら読ませてよ」
 わかった、と返事をしながら、同時に二岡はこうも考えている。
 今日も図書館に行ってみようかな。

🔖

 夕暮れの図書館で女の子と二人きり。
 オタクであれば、いやオタクでなくとも男であれば、一度は妄想してみた事があると思う。向かいに座って勉強を教えてもらったりして、ちょっと接触もあったりしてどきどきするのだ。
「……まあ所詮妄想なんだけど」
 結局、昨日に引き続いて二岡は図書館にやってきていた。
 用もないのに図書館を訪れ、手に取る気もないのに本棚を物色し、本を手にしてないのにテーブルに座るその姿は挙動不審そのものであったが、平日夕方の図書館は閑散としていて誰も二岡に注意を払わない。それが逆に彼を惨めな気持ちにさせる。
 黒ずくめの少女はいなかった。
 ならば早く帰ればいいものを未練がましく居続けているのは、待っていれば来るかもしれないという淡い期待を抱いているからに他ならない。
 彼女が来ない可能性と来る可能性、素性を知らない以上はどちらも等しく存在している。
「……」
 とはいえ、暇である。
 二岡は制服ズボンのポケットからスマホを取り出し、メモ帳を開く。そこには一行だけ書かれた項目があり、
『真夜中の文学少女』
 朝の社との会話から盛り上がりスマホにタイトルだけを打ち込んだ。夜ではなく真夜中にしたのはその方が雰囲気があるから。しかしあらすじを考える段階まで来たところで二岡の手は止まってしまっている。
 数秒だけ目にした少女。
 名前すら知らない少女を題材に小説を書こうと思っても、まず適当な名前を付けるのが憚られる。それに性格が書いたものとまったく違ったらどうしよう。それに見ず知らずの人を勝手に小説にするのは失礼じゃあ…そう考えていくと何も書けなくなり、結局タイトルだけしか書けなくなってしまっている。
 失礼も糞もない。彼女は自分の存在すら知らないわけだし、仮に自分が彼女をモデルにした小説を書いているのを知ったとしても気にも止めないだろう。自意識過剰だと二岡は思う。自分など誰かに気にされる存在ではないのだ。
 それに――社から朝言われた言葉がフラッシュバックする。

――お前の心が産み出した幻想なんじゃないか?

「……そうかもな」
 自嘲気味に二岡は笑う。久し振りに来た図書館の懐かしい匂いにやられ、少し頭が舞い上がっていたのかもしれない。黒ずくめの少女だって、昔何かのアニメか漫画かラノベで見たキャラクターなのかもしれないし、確かにこの目で見たと言ってもほんの数秒だけ。実はそんな可愛くなかったかもしれないし、服も黒じゃなかったかもしれない。
 自分のオタクな脳みそが作り上げた幻想だったと思う方がむしろ腑に落ちる。人間は見ているものを自分の都合のいい形で見てしまう生き物なのだ。
 などと一通りご託を並べたところで二岡はイヤホンを取り出しスマホに刺す。とりとめのない思考を止めたかった。YouTubeを開き、とある公式チャンネルへと行く。最近ハマっている音楽バンドだ。最近は公式が歌をアップしてくれている事が多く、小遣いの少ない貧乏中学生には大変ありがたい。
 音楽を聴く前にイヤホンの調子を確認する。最近接続が悪く、聴いている最中に触れてしまい止まってしまう事が良くある。そのまま視聴を再開してしまうと公共の場で音楽が大音量で流れてしまうので要注意だ。だが今回はちゃんと接続できたらしい。
 イヤホンを通じて、気だるげな声音の男の歌が聴こえてくる。

いつだってこんがらがってる 今だってこんがらがってる
僕の頭の中
それは恐らく 君と初めて会った時から

 フジファブリックというバンドの『sugar!!』という曲だ。もう10年以上前の曲だが、最近YouTubeを適当に閲覧している時に行き着いて気に入った。あまり熱量込めて歌わないところがとても良い。力を込めて歌われると説教されている気がしてなんだか嫌なのだ。
「……」
 自意識まみれの中学生が聴く音楽として、フジファブリックは最適なものに思えた。アニソンであったりボカロの曲も聴くが、今はそんな気分ではない。聴きながら、無意識のうちに音楽に乗っていく。ほとんど誰もいない図書館の中で。

甘酸っぱい でもしょっぱい
でもなんか悪くはない
甘酸っぱい でもしょっぱい
でもなんか悪くはない

 最高だった。
 しかし。
「……あ」
 スマホを持つのが面倒になり、ついテーブルに置いてしまった。イヤホンの接続部分とテーブルが触れ合い、微妙に動き、そしてYouTubeが勝手に一時停止状態になる。
 やってしまった。
 良いとこだったのに。
「あ~あ……」
 自分の馬鹿さ加減に呆れ、スマホを放り出す。図書館に来て、音楽聴いて、不注意で止めてしまう。何やってんだか。
 だがあるいは幸運だったのかもしれない。もし接続が途切れなければ、二岡は調子に乗って次の曲を探していただろうし、一生気付かなかった可能性もある。
 少なくとも今のように顔を上げたりはしなかっただろう。

 黒ずくめの少女が、斜め向かいに座っていた。

 もう少しで声を出してしまうところだった。目の前に確かに昨日見た女の子が座っている。昨日と同じ黒いセーラー服に赤いスカーフ。小説を読んでいて、いわゆる萌え袖と言われるぶかぶかの袖から申し訳程度に出ている細くて白い指で本を弱々しく掴んでいる。昨日は気付かなかったが髪の毛の右側を丸い髪止めで束ねている。澄んだ瞳をしている。
 可愛い。
 正直な感想が頭から浮いてくる。こんな可愛いのに一人で図書館にいて、こんな可愛いのに黒ずくめの格好をしている。なんでだろうと失礼すぎる疑問を二岡は抱いたがそんな事はどうでも良かった。
 現実に彼女は存在したのだ。
 とはいえじろじろと見ていては気持ち悪がられる。話すきっかけとなる言葉など最初から持ち合わせてはいない。これだけ至近距離にいても、自分としては眺めるかスマホに逃げ込むしかない。
 二岡は慌ててYouTubeの再生ボタンを押した。
 大音量だった。

全力で走れ 全力で走れ 36度5分の体温
上空で光る 上空で光る 星めがけ

 図書館中に『sugar!!』が響き渡る。
「……」
 忘れていた。
 だが今はどうでもいい。もっと恥ずかしい事が起きたからだ。

 本から顔を上げた少女と、ばっちり目が合ってしまった。

 当然、彼女は驚いた顔をしている。慌ててYouTubeを止めたがもう後の祭り。戻ってきた静寂が逆に二岡の心に突き刺さる。
「……あ、えっと…」
 恥ずかしすぎて死にたかった。
 絶対に変な奴だと思われた。それかバカな奴か、読書の邪魔した嫌な奴。頭が混乱している。どう謝ろうかという思いが先に出てしまい上手く言葉を紡げない。紡げないので焦る。焦ると声が出なくなる。最悪のスパイラルだった。もういっそこのまま黙って出ていってしまおうかとすら思う。二度と図書館には来れないだろうが、それでもいいとすら思える。今感じている情けなさに比べればマシだ。そうだ逃げよう今すぐ逃げよう、
「ふふっ」
 焦りすぎて、聞き逃してしまうところだった。
「フジファブリック、お好きなんですか?」
 彼女は微笑んでいた。
「……あ、は、はい……」
 消え入りそうな声でなんとか返事をすると、彼女は微笑みながら、
「私も好きなんです。でも周りに好きな人がいなくって」
 彼女は後で、雨森小夜(あめもり・さよ)と名乗った。

🔖

 それから毎日図書館に通った。
 大抵二岡が先に到着し、決まって図書館奥のテーブルに座って待っていた。彼女が来る時間はまちまちであったが、それでも彼女も毎日図書館にやって来た。
「こんにちは」
 初めて会話をしたあの日から、小夜と毎日いろんな話をした。フジファブリック以外にもいろんなバンドの曲を聴いていたり、伊藤計劃という作家の小説がこの世で最も好きだったり、小学生の時から転校を繰り返していたり。
「そうだ、聞いてくださいよ。この間――」
 小夜の声は想像していたよりも高く、音量が大きかった。朗らかな性格なのかもしれない。少なくとも、会ったばかりの自分にこれだけいろんな話をしてくれるのだから。
「今日もお疲れ様でした。さようなら」
 別れる時は決まって図書館の前だった。帰る方向が逆だったのもあるが、純粋に一緒に帰りませんかと尋ねる勇気がなかったのだ。でもそれを差し引いても二岡は幸せだった。なんだか仲が良い気がするからだ。
 まさか小夜と話せる仲になるとは思いもよらなかった。
「……よし」
 夜になると二岡は自室にこもり、大学ノートに小説を書いていく。『真夜中の文学少女』だ。雨森小夜は毎回、依頼者が復讐したい相手を小説の中に落としていく。最新の話で落としたのは『バトル・ロワイアル』だった。もちろん無惨に死んでいった。
「僕は伊藤計劃さんの本を読んだ事ないんですけど、機会があれば――」
 そう言った翌日に、小夜は伊藤計劃の『虐殺器官』という本を貸してくれた。
「マキシマム・ザ・ホルモンなら断然『シミ』ですかね。でも『ぶっ生き返す』ももちろん――」
 ある日はマキシマム・ザ・ホルモンの話題だけを1時間語り合った。
「自分で書いたりするかって?いやそれは……」
 あなたを題材に小説を書いてますとは、さすがに言えなかった。
 ずっと敬語で会話しているし、相変わらずお別れは図書館の前だし、どこの学校に通ってるかはずっと聞きそびれたままだが、それでも二岡は幸せだった。
「二岡さん、意地悪なところもあるんですね」
 二岡が冗談を言う時屈託なく笑ってくれる彼女はとても可愛かった。
「あなたがただの意地悪だと思っていたその行為が、あの子を傷付けていたんですよ?」
『真夜中の文学少女』の小夜は日が経つにつれ、二岡の頭の中で本人に近付いていった。
「お前最近思い出し笑い多いよな」
 社に指摘されるまで、二岡は教室でも小夜との会話を思い出しにやついている事に気付かなかった。
「……」
 やがて、小夜が来るまでの時間が待ち遠しくなっていった。
「……彼氏いるのかな?」
 夜、小説を書く手が止まるようになっていった。
「二岡さん、五月誕生日だったんですか。言ってくれたら良かったのに」
 初めて会話してから半月が経った日の事だった。もう月めくりのカレンダーは五月から六月へと変わっている。
「いや、言うほどでもないですし……」
「何言ってるんですか。それじゃあ小夜ちゃんが薄情者みたいじゃないですか。ちゃんと祝うのが友達ってもんでしょう?」
 友達。
 嬉しいはずの言葉が、やけに心に突き刺さる。
「…そういう雨森さんはいつ誕生日なんですか?」
「私ですか?私は今月の十一日ですね」
「今月なんですか?」
 まさかそんなに近いとは思わなかった。あと十日だ。
 思わず聞いてしまう。
「た、誕生日プレゼントは何が欲しいですか?」
「え?」
 小夜が目を丸くする。途端に恥ずかしくなる。そりゃそうだ、友達と呼んでくれたにしても会ってまだ一ヶ月も経っていない男から誕生日プレゼントのリクエストを聞かれるとは思ってなかっただろう。それどころか、なんでお前にプレゼントを貰わなきゃならんのだとすら思ってるかもしれない。
「じゃあ、本を貸してくださいよ」
 しかし彼女は予想に反する答えを言った。
「二岡さんが一番面白いと思ってるやつ!いいでしょう?」
「え……でもそれで本当にいいんですか?」
「むしろそれ以外欲しくありません」
 小夜はあまり自分を可愛く見せようとしない。そういった行動も取らないし、媚びるような言葉も吐かない。
 だから次の行動はとても意外なものだった。

 小夜が両手で二岡の右手を握ってきたのだ。

「約束!」
「……は、は、は、はい……」
 我ながら最高に気持ち悪い声が出ていたとは思うが仕方ない。どもりながら二文字を吐き出すのが精一杯だったのだ。
 心臓がライブのドラム音が如く、凄いスピードで鳴っている。もうごまかしようがなかった。自分の心を偽る気はもうなかった。
「楽しみにしてますね」
 そう言ってにっこりと笑う小夜は、反則的なまでに可愛かった。

🔖

 自分にとって彼女はなんなのだろう。
 逆に、彼女にとって自分はなんなのだろう。
 二岡にとって小夜は可愛い女の子であり、意外と趣味の合う異性であり、おそらく友達だ。友達だが話す時にドキドキする。友達だが別れる時少し切ない。友達だが、誕生日プレゼントの約束をした翌日の事、二岡は彼女を見て初めて苛立ちを覚える。
 その日は少し遅刻をしてしまった。遅刻と言っても何時に集合というような約束を交わした事は一度もないのだが、それでも帰りのホームルームが長引いたせいで三十分も遅れて到着してしまった。
「もう来てるかな……?」
 慌てて、しかし図書館なので決して走らず、はやる気持ちを抑えて二岡はカウンターの前を通過する。なるべく最短距離でいつものテーブルへと向かうと、小夜はやはり先に来ていた。
 しかし彼女は椅子には座っておらず、もっと言えば一人でもなかった。

 見知らぬ男が、小夜に話しかけていた。

(……え?)
 思考が停止する。男は高校生、もしくは大学生くらいの若さで二岡よりは背が高い。二岡も小夜より10cmは高いが、彼女の見上げ方からして男はそれ以上あるように思える。
 こちらに背を向けているので顔は見えないが、野暮ったいブレザーを着ている二岡よりはお洒落に見える。
 何より小夜が楽しげに笑っている。
「……誰だよ」
 胃の中に大きい石でも入ったかのように気分が重くなった。二人の間に割って入る勇気はない。だがすぐに男は立ち去った。図書館の奥から外に出るルートなど一つしかなく、即ち二岡の側を横切る。
 男は、端正な顔立ちをしていた。
「二岡さん、随分遅かったじゃないですか。さては、放課後デートなんかしちゃってました~?」
「そんなんじゃないです」
 思った以上にぶっきらぼうな声が出て自分で驚く。小夜も同様に驚いた様子で。
「どうしました?気に触る事を言ってしまったのなら……」
「……いえすみません、なんでもないんです」
 男の事は聞けなかった。聞く勇気もなければ権利もないと思えたからだ。
 考えてみたら当たり前の話だ。小夜は可愛い。黒ずくめの格好に似合わず明るい性格でもある。何よりこんな冴えない自分にすら話しかけてくれた。
 そんな人が自分以外に仲の良い異性がいないはずない。
――可愛い女の子には彼氏がいるからな
社の言葉がフラッシュバックする。
「……そうだよな」
 自室で小説を書きながら二岡は一人ごちる。『真夜中の文学少女』は構想したストーリーの中盤まで書き上がっていた。依頼に沿って無感情に仕事をこなしていた小夜だったが、中盤では彼女の別の側面を描く。構想ではここで一人男キャラを登場させて恋に落とさせる予定だったのだが、登場間際になって二岡の腕は止まる。
 どうしても考えてしまう。
 小夜は異性の友達が何人いるのだろうか。
 そしてその中に恋人はいるのだろうか。
 急に話す仲になって舞い上がっていたが、見知らぬ男の登場で一気に要らぬ感情が沸き出してくる。自分にとっては特別な女の子かもしれないと思っていたがしかし、彼女にとっては数いる友達の中の一人でしかないのかもしれない。
 二岡が知っているのは図書館の中の小夜だけで、当然自宅で家族と過ごす小夜もいれば学校に通う小夜もいる。その姿を二岡は決して見る事ができない。二岡は想像する。どうしてもしてしまう。小夜が学校で、自分の知らぬ異性と楽しげに会話する姿を。告白なんかもされているかもしれない。誰かと付き合っているかも、
「……寝よ」
 ベッドに転がる。
 二岡のメンタルは、言い逃れができないほどに乱されつつあった。

🔖


「お前、そんなしょうもない事考えてるのか」
 翌日、社に相談したら呆れられた。
「だって……」
 二岡は生まれてこの方モテた試しがない。社も同様なので相談する相手を間違えてしまった感もあるが、それでも頼れるのは彼しかいなかった。
 社は言う。
「どう考えても彼氏だろ」
「……そうだよなぁ」
 男と話してる時の小夜はとても楽しそうだった。そして男はかっこよかった。いかにも女の子と話し慣れていそうな顔。
 二岡の表情がよほど死んでいたのか、
「ま、まあリアルの女の子なんて面倒くさいだけだって。それより我々は"創る"事ができるんだから」
「創る?」
 そう聞くと、社が机に置かれた大学ノートを指で軽く叩く。
「俺達には妄想という武器があるわけだ。妄想の中で俺達は自由に女の子を創造できる。理想の女の子にしても良し、少し操縦不能な女の子にしても良し。思うがままだ」
「……でも、所詮妄想だ」
 否定はするが、正直社の言う事もわからんでもない。
 例えば二岡がいて、向かいに小夜がいるとする。二岡は小夜のすべてを知る事はできない。他人だからだ。しかし自分の中に存在している小夜、つまり自分が"こういうイメージ"として捉えている小夜であれば頭の中で自由に動かす事ができる。
 人なんて所詮自分の価値観の押し付け合いをしているに過ぎない。相手がこういう人間だと思う、行きすぎればこういう人間であってほしいという一方的な感情で相手を矯正しにかかろうとするし、理性ではなかなか抗いにくい。
 二岡からしてみれば小夜は本好きの女の子であり、それ以上のものはない。もし彼女が舌にピアスを埋め込んでたとしても、本当は二重人格だったとしても、実は男であったとしても、二岡には一切関係ない情報なのだ。
 二岡が小夜に関する情報を必要以上に入れようとさえしなければ、彼女は自分の中で永遠に理想的なままでいられるのだ。
 例え男と楽しげに話しているところを目撃してしまった後でも。
「ま、机上の空論ってやつだがな」
 社は自嘲気味に笑い、
「頭の中に好きな女の子の好きなところだけ閉じ込めて妄想だけで暮らす、それもまあできなくもない。でも無理なんだよな。接すれば接するほど、相手を知りたくなっちまうから」
 そうだ。
 もう無理なのだ。執筆に影響が出てしまっている事からも明らかだ。小夜の新たな一面を知ってしまってから、見知らぬ男との会話を目撃してしまってから、二岡は彼女に関するすべての情報を仕入れたくて仕方なくなっている。それが自分にとって幸せにならない結末であっても、苦しみしか得られないとわかっても、求めずにはいられない。
「求不得苦ってやつだな」
 社が聞き慣れぬ単語を放り込んでくる。
「仏教のさ、四苦八苦っていう人生において味わう苦しみとされている中の一つだよ。求めているものほど手に入らない苦しみ。お前が今それだろ」
「……そうかも」
 かもではない。そうなのだ。
「ま、でも逆に言えば二千年よりずっと前から同じような苦しみを先祖代々味わってきたわけだよ。だからまあ、難しいかもしれないけどさ」
 社は回りくどい性格だが、基本的に悪い奴ではない。むしろ良い男だ。
「悩むよりもさ、とりあえず誕生日に貸す本を選んで喜んでもらえばいいんじゃないか?彼女はそれを望んでるわけだしさ」
「……そうだな」
 悩んでも仕方ない。仕方ないが悩んでしまう。その繰り返しだが、少なくとも悩みっぱなしではいけない。仕方ないと割り切りっぱなしでもいけないように、上がったり下がったりを繰り返すのが人間なのだ。
 二岡は社に心からの気持ちを述べる。
「ありがとう」

🔖

 あの男はそれから現れなかったし、誰なのか小夜に尋ねる事もしなかった。
 誕生日が一日また一日と迫る中、二岡は相変わらず他愛のない話に終始していた。好きな本の話、好きなバンドの話、二岡がする好きなアニメの話、小夜がする友達の話。なんでも小夜の通う学校に生物研究部があって、そこに友達がいるそうだ。小夜もたまに山とか海に連れてかれて部外者なのにカエルの解剖とかをさせられるらしい。想像するだに恐ろしい。
 そんな、何でもない、話したところで何の得にもならない話が、ひたすらに楽しかった。
『真夜中の文学少女』もまた書けるようになってきた。やはり恋愛要素を入れる事に決めた。好きになった男の子が別の依頼者によって本落としの対象になってしまい、小夜は葛藤する。そもそも小夜が真夜中の文学少女などという奇っ怪な仕事をしているのは、彼女が他人の寿命で生き長らえている人間だからだ。本に落として殺した人間の魂を取り込み、少し生きる事ができる。逆に仕事がなくなったり誰かを生かすような事があればそこで自分の命は尽き果ててしまう。自分の命か好きな男の子の命か――我ながら結構面白い設定を考えたと思う。
 図書館での会話で小夜の新たな一面を知り、小説の中で彼女を再構成する。
 正直言って気持ち悪いと言えなくもない。だが人間気持ち悪い部分がなければ逆に気持ち悪い。何かしらの秘密や性癖を抱えているものだ。よほど変な性癖に比べれば、自分のしている事など健全そのものだ。
 と、自分に言い聞かせながら二岡は一日ずつ潰していく。
 小夜に貸す本は、散々悩んだ末にラノベに決めた。
「……やっぱやめようかな」
 何回も迷ったが、悲しい事に好きな本がラノベしかなかった。
 さすがに女の子がエロっちい目に遭う作品は選ばなかった。最終候補として残ったのが『イリヤの空、UFOの夏』と『とある飛空士への追憶』。あまり長くならないのを選んだ。小夜の感性に近く、なおかつ自分が面白いと断言できる作品。それだけにどちらにするか決められずにいるが、誕生日までには決めるつもりだ。
「もう梅雨の時期なのに、今日も暑いですね」
 六月十日。誕生日の前日も、二人は何でもない会話を繰り広げている。少なくとも二岡はそう感じていた。
「ねえ、二岡さん」
「なんでしょう?」
 二岡には、彼女の声がいつもと変わらぬように聞こえた。
「突然なんですけど、お礼を言わせてもらっていいですか?」
「お、お礼ですか?」
 何を突然変な事を言い出すんだと思ったが、小夜が冗談なのか真面目なのかどっちつかずの表情をしている為、何とも返答しにくい。
 そんな二岡をよそに小夜は話し続ける。
「去年、学校をやめてしまった友達がいまして」夏のような陽射しが差し込む窓に目をやりながら、「私去年まで、あまり積極的な人間ではなかったと言うか、誰かと話すのが凄く億劫だったんですね。だから本ばかり読んでいて。数少ないお友だちとばかり遊んでいて」
 自分と同じような境遇だと二岡は思った。
「でもそんな友達の一人が、去年の十二月に退学してしまって。関西弁の活発な子で、凄く自由な性格だったんで学校というものが性に合わなかったのかもしれません。本当に突然やめてしまって」
 だが退学直後に、二人で話をしたと言う。
「その子が言ってくれたんです。"小夜ちゃんともっと話したかった"って。私友達であっても少し距離を置いてたんだなって、その時感じて。その時思ったんですよ、もっと自分から話しかけられる人間になろうって」
「……だから、僕にも?」
 小夜は頷く。
「迷惑かなとも思ったんです。でも二岡さんがフジファブリックを聴いてて、なんだか声をかけずにはいられなくって。違う学校の男の子に話しかけるのなんて初めてだったから、凄く緊張しちゃいましたけどね」
 小夜はそう言って恥ずかしそうに微笑む。大丈夫だと二岡は心の中で答える。絶対に自分の方が緊張していた。
「あの時突然話しかけたのに、私なんか無視しても良かったのに、友達になってくれて、ありがとうございました」
「そ、そんな……こちらこそですよ」
 あの時小夜から話しかけてくれなければ、一生他人のままだった。
 勇気もなく度胸もなかった自分を救ってくれたのは、間違いなく目の前にいる彼女だ。
「こちらこそ……ありがとうございます」
 頭を下げる。なんだかエモい空気になってしまった。正直少し恥ずかしいが、おそらく彼女も同じ気持ちであろう。
 一人で恥ずかしいなら嫌だが、一緒に恥ずかしいなら問題ない。
 だが恥ずかしいままでは終われないので、無理に明るい口調で二岡は切り出す。
「明日、めっちゃ面白い小説を貸す予定なんで!楽しみにしててください!」
「お、言ったな?そこまで言うからには期待しちゃいますよ?」
 小夜も冗談っぽく応戦する。
 そして二人で笑った。
 幸せの、幸せの幸せの更にその上の、凄く凄く幸せな状態を指す言葉が欲しかった。

🔖

 翌六月十一日。
 雨森小夜の誕生日。
「……」
 雨だった。
 図書館の奥テーブルに座っているのは、二岡一人だった。
「……遅いな」
 二岡の学生鞄には『イリヤの空、UFOの夏』全四巻が大事に仕舞われていたが、結局取り出す事はなかった。

 小夜はやって来なかった。
 誕生日も、その翌日も、そのまた翌日も、ずっとずっと。

🔖

 夢を見ていた。
 二岡は気付いていない。夢なんてそんなものだ。自分が過去に体験した記憶の集合体だの、実は違う世界へ繋がっているだの、実際のところどうなのかはわからないが、一つわかっているのは夢は覚めると忘れてしまうという事。
「現実の雨森小夜とあなたの妄想の中の雨森小夜」
 二岡の向かいに小夜が座っていた。
 無論、二岡の夢の中の小夜だ。
「現実の雨森小夜を知れば知るほどあなたの理想からは遠ざかっていく。一方で理想の雨森小夜を頭の中で作り上げていっても、結局は現実と解離してしまう。でも、それでもいいとあなたは思った」
「……」
 いつもの図書館。しかし自分達以外は誰もいない。
 夢の中の小夜は現実の彼女よりも表情に変化がなく、少し冷淡な口調で喋っている。
「しかしどうでしょう。現実の小夜が忽然と姿を消してしまった。彼女は今あなたの妄想の中にしか存在しない。あなたの都合で好きに動いてくれる、でもあなたの都合でしか動いてくれない雨森小夜」
「……あなたを見始めたきっかけは、雰囲気の良さからでした」
 夢で人は支離滅裂な事をさも当然のような顔で話す。
「他の騒がしいのとは違ってとても大人しめで、音楽も一癖ある感じで、ちょっと怖くて、でもそこが魅力的に感じたんですよね」
「だから好きになった?」
「初めは見てるだけだったんですが――」ふと周囲を見やると、そこは図書館ではなくなっていた。どこか知らない、閑散とした駅の前。「そのうちどうしても喋りたくなって。多分知って二ヶ月後くらいだったと思うんですけど、勇気を出して、"草"って」
 またも風景が変わる。今度は夜の海。波や風の音が騒がしく、自分でも自分の声が聞こえない。それでも喋り続ける。
「でも雨森さん、変な時間ばかり――するんですもん。――とか――とか。海で――した時は本当に頭がおかしいのかと思いましたよ」
「――を投げたのもその頃ですか?」
「いや、春頃ですね」またも風景が変わる。どこかの独房だ。先程までとは打って変わって静寂が身を包む。「名前を覚えてもらいたい承認欲求からだったのか、生活の足しにしてもらいたかったのか……自分でもわかりませんが。いや、やっぱ覚えてもらいたかったんだろうなあ」
 いつの間にか彼女が生活の中心になっていた、とまでは言い過ぎだが、確実に生活の一部にはなっていた。
「他の人はさ、何かの記念とか誕生日とか、とにかく派手にやるんですよ。でも雨森さんはそういうの一切やってくれない。他の人は新しい服ができたらすぐに着てくれる。でも雨森さんは半年も着てくれなかった。他の人と違う雰囲気だから好きになったはずなのに、いつの間にか同じ事をしてほしくなっていた!」
 次は葬式会場だった。遺影には小夜の写真が飾ってある。
「僕はわがままな自分を恥じた。あれをしてほしい、これをしてほしい。せめて見易い時間にお話ししたい。こんな事自分勝手だってわかってるが、理屈抜きの感情ではどうしようもなく欲していた。あなたを嫌いになりそうだった!」

「でも、あなたは嫌いになれなかった」

 雨森小夜の遺影の前に、雨森小夜が立っていた。
「どんな時間に現れても、ゲームしてくれなくても、記念日や誕生日になにもしてくれなくても、あなたは雨森小夜を嫌いにはなれなかった」
「彼女はどうしようもなく面白かった」
 また場所が変わる。本がいくつも積み重なっている空間。
「ただの会話の中に、いろんなギミックを仕込んでくれた。時には分裂したり、時にはストーカーになったり、自刃してみたりヒステリックな母親になってみたりギャルになってみたり。毎回面白かった。笑わない時がなかったくらいだ」
 次は電車の中だ。空は真夏の青だった。
「あの娘との話も感動した。半年待たされた事への勝手な怒りや悲しみがみるみる溶けていった。卑怯だとも思った。これで毎回許しちゃうんだ。だってあんな凄い事してくれる人、他にいないもん」
 あの時は深夜だったにも関わらず、終わってからしばらく興奮して眠れなかった。それほどの衝撃を与えてくれたのだ。
「だからもう良いんだ。あなたが深夜や早朝に現れても、月に一度しか会えなくても、それどころかいきなり何ヵ月もいなくなっちゃったって、全然大丈夫。僕は大丈夫だ」
「勝手に杞憂して、勝手な理由で立ち直って。本当にバカな人」
 小夜は笑う。二岡の頭の中の雨森小夜。
「じゃ、せいぜいこんな事をせずに黙って彼女が帰ってくるのを待つ事ですね」
「いや、無理だ」気付けば、また図書館に戻ってきていた。「人間は自分の業には勝てない」
「本当にバカ」
 目覚ましの音。
「……んぁ」
 変な声を出しながら二岡はふらふらと手を彷徨わせ、スマホを止める。気を抜くと眠りそうになるが今眠ると遅刻は確定。目をこすり、ベッドから降りる。
「……ん?」
 違和感を覚えてこすったばかりの右手を見ると、人差し指が濡れていた。
 それどころか枕も微妙に濡れている。泣いてたのか?と二岡は思うが肝心の夢の内容が思い出せない。夢なんてそんなもんだ。思い出そうとしても無理なので、忘れる事にする。
「さてと……」
 二岡は立ち上がり、カーテンを開ける。
 前日に引き続き、今日も雨が降っていた。

🔖

「ここ、いいですか?」
「えっ!?」
 いきなり話しかけられた二岡はみっともないくらい狼狽する。咄嗟に大学ノートを隠す。これを見られるくらいなら今ここでビリビリに破り捨てた方がマシだ。
 小夜が来なくなった図書館に、しかし二岡は毎日顔を出していた。最初の数日は特に何もする事なくひたすら彼女を待っていたのだが、そのうち図書館でも『真夜中の文学少女』を書くようになっていた。一日中肌身離さず持ち歩いているという事になる。自分でも気持ち悪いと思う。
 今日も二岡はほとんど人が来ない図書館の奥テーブルで一人執筆していた。
 話しかけられるのは、予想外の事態であった。
 しかも、話しかけてきたのは、
「あなたは……」
「一度ここですれ違いましたよね?」
 背が高く、茶髪のサラサラヘアーで、お洒落な服をお洒落に着こなし、端正な顔立ちをしている男。
 以前小夜と話していた男だ。
「加賀美ハヤト(かがみ・はやと)と申します」
 どこからどう見ても歳上なのに、加賀美と名乗った男は敬語で話す。
「……二岡です」
 消え入りそうな声でなんとか名乗ると加賀美は微笑んで、
「知ってます。小夜ちゃんと毎日ここでお話されていたんですよね?」
 小夜ちゃん。
 小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん。
「……それがなにか?」
 というかあんたは誰で彼女とはどんな関係なのか、首根っこを掴まえて聞き出してやりたかった。無論そんな勇気はない。
 二岡が威嚇にも似た空気を出している事に気付いていないのか気付いてないふりをしているのか、おそらく後者であろう。加賀美はにこやかな表情を崩さない。
「私、小夜ちゃんとは同じ学校でして。彼女よりは一学年上なのですが、放送部で一緒に活動しております」
「……なるほど」
 つまり加賀美は二岡よりも遥かに小夜と近い位置にいて、遥かに小夜の事を知っているというわけだ。
 しかしここで疑念が沸く。加賀美という男、どう考えても中学生には見えない。それどころか学生にすら見えないがそれは置いとくとして。
 小夜はわりと幼い見た目をしている。だからか今まで疑問に感じなかったが、よくよく思い返してみれば市内の中学校は全校ブレザーが指定服であるし、他の市から中学生が毎日どこの町にもあるような図書館にわざわざやって来るとは考えにくい。それに来なくなった日の前日、彼女は友達の話をしている時にこう言っていた。

――でもそんな友達の一人が、去年の十二月に退学してしまって

「……」
 おかしい。
 中学校に退学などという概念があったのは戦前までの話だ。
「あのう……」おそるおそる、加賀美に尋ねる。「つまりその、雨森さんって……高校生なんですか?」
「そうですよ」
 あっさりと加賀美は答える。
「私が三年で小夜ちゃんが二年生ですね。ご存じなかったのですか?」
「……ご存じなかったです」
 つまり彼女は、自分より三歳も年上だったという事だ。正直ショックだった。勝手に同じ中学生だと思ってたし、いつかタメ口に切り替えるタイミングを模索していた。小夜の方はよもや自分を高校生だとは勘違いしておるまい。自分を中学生と知った上で敬語を使ってくれていたのだ。
 急に彼女が大人に感じた。
 だがそんな事すら吹き飛ぶような一言を、加賀美が発した。

「今日は小夜ちゃんから託けを預かって参りました」

「……ことずけ、ですか?」
 加賀美から発せられた言葉が耳を直撃し、脳まで侵食し、じわじわと理解してきた段階で、二岡はやっとおうむ返しのように言葉を吐き出す。
「はい」加賀美の言葉はまるで爆弾のようだった。「実は彼女、今海外に行ってまして」
「か、海外に?」
 なぜこんな夏休みでもない最中に。しかも唐突に。
「私達の高校は少し特殊でして、毎年六月に課外学習という名目でいろんな場所に行かされるんです。ただし希望した者のみなので行かなくてもいいのですが、生物研究部に所属しているご友人に半ば無理矢理連れて行かれてしまったようで、しばらくは日本に戻ってきません」
 その話は聞いた事がある。生物研究部の友人に連れられてカエルの解剖をさせられたとかなんとか。あれはじゃあ去年の話だったのか。
「今はスマートフォンの電波も届かない場所にいるようなのですが、出発する前日に私にLINEであなたに関するメッセージが送られて来ましてね」
「……はぁ」
 小夜のLINEを知っているという事実にまた闇の部分が出かけるが、今は情報が先だ。
「それで……雨森さんはなんと?」
 加賀美はスマホを取り出す。律儀な性格だ。そもそもよく知らない自分の為にこうして雨の中図書館まで来てくれたのだから、凄く良い人なのだろう。
 加賀美が読み上げてくれる。

『――ごめんね。いつか同じ場所で』

「ありがとうございました」
 深く、深く深く頭を下げる。もう少しでテーブルに頭がくっつくほどに。この感謝には謝罪の意味も含まれている。イケメンというだけで、小夜の彼氏かもしれないというだけで、勝手に悪い印象を抱きかけてしまった。
 イケメンは心もイケメンなのだった。
「いいんだ」加賀美はどこまでも朗らかに微笑む。「私にこんなメッセージを送ってくるという事はよほど伝えてほしい事だったんでしょうし、可愛い後輩の頼みは聞き入れたいので」
 では、と言って加賀美は立ち上がる。見送ろうと立ち上がりかける二岡を手で制し、傍にある大学ノートをちらと見遣り「勉強頑張って」と励ましてくれた。
 良い人だ。
 二岡は加賀美のかっこいい背中が見えなくなるまで見送っていた。
 仄かな疑問が生まれたのは、執筆作業に戻ってから。
「……ん?」
 今日は六月の十八日。小夜の誕生日からちょうど一週間経ったという事になる。そしてこの一週間、二岡はバカみたいに毎日図書館にやって来ていた。
 つまり自分と会えるチャンスは毎日あったという事。
 小夜のLINEが来た日というのは、おそらくは十日の夜あたりだろう。
「……」
 疑問がだんだんと形作られていく。なぜ今日だったのだろう。可愛い後輩がメッセージを伝えてほしくてLINEを送ってきたというのに。なぜ一週間寝かせたのだろう。
 疑問が一つの形になる。
「もしかして……」
 だが二岡は首をぶんぶんと振り、嫌な思考を追い払う。考えない方がいいだろう。絶対に答えは出ないし、何よりあの顔立ちと優しい性格の持ち主だ。学校にはたくさんのファンがいるに違いない。憶測で物を言ってもし勘違いだったとしたら、その後が怖い。
 加賀美ハヤトは優しくてかっこいいお兄さん。
「……よし」
 思考を切り替え、二岡はまた執筆を再開する。
 小夜とまた会える日まで、二岡は図書館に通い続ける決意をする。

🔖

 雨が降らない日はなかった。
 梅雨入り前が嘘のように、毎日毎日降って降って降って降った。小夜がいなくなってからなので、もう十日以上になる。
 だがそんな雨も、二岡は気にならなかった。
「……」
図書館で、自室で、毎日毎日小説を書く。小夜が好きになった男の名はハヤトにした。自分の名にするのは気が引けるし、加賀美の容姿が主人公の相手役として適任だったからだ。
 小夜は結局ハヤトを本の中に落としてしまう。ハヤトはかつて告白を丁重にお断りした女子からの逆恨みを買っていたに過ぎなかったが、どんな完璧な人間でも人から恨みを買わずに生きるのは難しい。人の数だけ恨みがあり、恨みの数だけ自分の命がある。小夜はそれを理解していた。それでも、
「クライマックスだしさ、最後は小夜も本の中に入るのはどうだ?」
『真夜中の文学少女』唯一の読者である社のアドバイスはとても有益なものだった。確かに最後は緊張感やアクションも欲しい。早速アドバイスを取り入れる。
「ハヤトさん!どこですか!?」
 ハヤトを追い本の中に入った小夜は一心不乱に彼を探す。図書館で延々彼女を待つ自分とは対照的に。現実の彼女は意外と行動派なのだ。
「邪魔です!」
 小夜は襲いかかる数々の敵を日本刀で斬り倒していく。黒のセーラー服と日本刀の組み合わせは古来よりオタクを魅了してきた。とても凛々しく、とても可愛い。
 現実の小夜も今頃動物の解剖を手伝わされているかもしれない。海外にいる小夜は今の二岡にとっては異世界にいるも同然だった。自分が書いていないというだけの話で。
 現実はフィクションであり、フィクションもまた現実であった。彼女を知ろうとすればするほどわからなくなり、しかし頭の中の小夜に現実の小夜が侵食してくる。かと思えば現実の小夜はどこかに行ってしまい、加賀美のLINEという変な場所からメッセージを送ってくる。
「ハヤトさん!」
 二岡は小夜であり、小夜はハヤトだった。自分が異世界に落としたハヤトを追う小夜は彼女が消えてしまった後で小説を書く自分の内面そのものだったし、ハヤトはいなくなってしまった小夜だ。物語の中の小夜に自分が侵食し、また小夜は物語の中のハヤトを侵食する。
 現実でも他人が自分に侵食し、自分もまた他人に侵食する。社は最近自分で小説を書き始めた。二岡は社のアドバイスでストーリーを変更した。これもまた侵食だ。
 混ざり合う。人と人は混ざり合う。例えどんなに離れていても、一生触れられぬ関係性であっても、一方的な感情の押し付けであっても、善意であっても悪意であっても、一言会話するだけで、ほんの少しでも存在を知るだけで、どんどんと影響されるしさせていく。
「……いいぞ」
 小夜は走る。ハヤトを探して走る。だがどこにも見つからない。泣きそうになるのを必死で堪える。「求不得苦だな」と社は言った。求めるものが決して手に入らない苦しみ。その通りだと二岡は思った。小夜は向かってくる敵を日本刀で切り刻んでいく。いらないものだけが常に手の届く場所にある。小夜は去年友達を失い、他人と積極的に関わる事を決めた。それは大事なものを再び取り戻しにいく行為だったのだろうか。
「わからない!わからないよ…」
 小夜はとうとう疲れ果て、その場に倒れ込む。どんなに自分を納得させようと、正解のようなものを得ようと、心の底から湧き出る苦しみからは逃れられない。好きになってほしい。自分だけを見てほしい。こんな奴とは付き合わないでほしい。汚ならしい感情。だが絶対に自分の中に存在する感情。
 小夜は叫んだ。だくだくと流れ落ちる涙を拭う事もせず、怒りに身を任せているかの如く、悲しみに絶望しているかの如く、力の限り小夜は叫んだ。
 そして、いつしか眠り込む。
「……小夜ちゃん」
 彼女に近付く足音が聞こえた。

🔖

 六月はとうに終わっていた。
 とうとう、彼女がいなくなってから一ヶ月が経過していた。
「……疲れた」
 シャープペンシルを投げ出す。図書館内は冷房が効いてるにも関わらず、二岡の額には汗が浮かんでいた。
 外を見る。今日もまた雨だ。中途半端に降ったり止んだりするので湿度がこの上なく不快なレベルにまで達し、二岡を苦しめる。
 しかし今は晴れやかな気分であった。
「……終わった!」
『真夜中の文学少女』がついに完成した。書き始めてからおよそ一ヶ月半。順調に書けたと言ったら嘘になる。筆を折ろうかと思った時もあった。一度誤字を消そうとして強く消しゴムをかけてしまい、ベージが容赦なく破れてしまった時は一日中落ち込んだ。それもこれも今となっては良い思い出だ。
 大学ノートなのでどこかに応募するとしても清書が必要で、読ませる相手も社しかいなかったが、それでも二岡の心は晴れ晴れとしていた。元々誰かに見せようと思って書き始めたわけではない。自分の心のままに、思いの丈をぶち込んだ。
 ひょっとしたら読み返した時に恥ずかしさで身悶えするかもしれないが、そんなものは未来の自分の責任であって、この瞬間の達成感こそがすべてであった。
 とはいえ、完成してもなお彼女は帰ってこない。
 二岡は誰ともなしに呟く。
「……帰るか」
 席を立つ。学生鞄を隣の椅子から拾い上げ、人もまばらの館内を歩き、カウンターの前を通過する。傘立てから自分のビニール傘を取り、入り口を出てから開く。
「さて……」
 これからどうしようか。
 自宅に向かいながら二岡は思案する。小説は書ききってしまった。彼女はまだ戻ってこない。完全にやる事がなくなってしまったし、二作目を書こうにも書きたかった事は全部書いてしまっている。
 いっそ次は完全なギャグにしようか。小夜を主人公にしたギャグ小説も面白いかもしれない――とまで考えたところで、二岡は唐突に気が付く。
「……あれ?入れたっけ?」
 近くのマンションの中に入り、学生鞄を開ける。普段は無意識のうちに鞄に入れているので今回も特に気を払う事などなかったが、振り返ってみると今日は鞄を開けた記憶がない。
 開けなければしまう事もできない。

「ない!」

 思っている以上に大きな声が出てしまったが、気にしてなどいられなかった。
 二岡は走り出す。傘など開いてる余裕はない。どうせ多少雨に濡れても構いやしない。二岡の頭にはテーブルの上に置き去りにされている大学ノートの事しかなかった。
 現実の彼女はまだ戻ってこない。
 頭の中の彼女もいなくなってしまうかもしれない。
 自動ドアが開ききる前に体をねじこみ、『走るな!』と書かれてあるポスターの前を猛スピードで通過する。カウンターの前を横切ると司書のおばさんがびっくりした顔でこちらを見ていた。初日に図書カードがあるか聞いてきたおばさん。しかし今は興味がない。
 あれを誰かに盗まれたくはなかった。
 読まないかもしれないが、捨てられたくなかった。
 他の誰にも触れられたくはなかった。
「……」
 しかし、奥のテーブルまで到着した時、二岡の大学ノートを手に取ってる者がいた。
「……なんで、」
 その者は夏服の白いセーラー服を着ていて、スカーフは青。半袖の為白く綺麗な肌が露わになっている。長くなった髪の毛を三つ編みにしていて、反則的なまでに似合っている。
「――お久し振りです、二岡さん」
 黒ずくめではないが、萌え袖ではないが、ストッキングも履いてはいないが。

 雨森小夜がそこにいて、『真夜中の文学少女』を読んでいた。

「というか、二岡さん」
 小夜は笑う。いたずらっぽく、楽しげに。
「私ってこんな風に見えてたんですか?小夜ちゃんこんな変な人間じゃないと思うんですけど~?」
「……いや、雨森さん変な人間ですよ」
 言いながら、変な感動を覚えている事に気が付く。現実の小夜が自分の書いた物語の小夜を読んでいる。恥ずかしさは不思議と感じない。
 それよりも、なんだか初めて"繋がった"気がして、それが堪らなく嬉しいのだ。
 これ以上言葉は必要なかった。
「あの……」
 と同時に、二岡は約束を果たした事に気が付く。小説を貸すという約束。まさか自分の小説だとは思わなかったが。
 二岡は言う。万感の想いを込めて。
「雨森さん、お誕生日おめでとうございます」

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