未知への恐怖と怠惰

空腹の前には理性なんてものは勝てっこありません。
時刻は一時をすぎたあたり。明日の着替えを用意して顔を洗って、寝る前の支度を済ませたあとにふと腹の虫の訴えを聞く。気付いてしまうとどうしようも無くて、包装されたパンを見ると既に歯磨きをし終えたことも忘れて食した。一口齧って咀嚼してようやく歯を磨いたあとだったことを思い出して、また歯を磨かなければならないなとぼんやり面倒くさく思う。格別に美味しいというわけではないのに、深夜になるとなにかものが食べたくなるのは何故だろう。

また歯を磨いたあと、いそいそと布団にもぐりこむ。兄の、買ったっきり放置している時計がこちこち音を刻むのが心地好くて好きだった。そうしてまだなんだか眠たくなかったから、出来なかったことについて思考をめぐらせることにした。
人は、知らないものを怖がり、嫌がるという。ご多分に漏れず私もそうである。全く未知、という訳でもないのに、どうしても始めることが出来ない。始めてしまえば継続することは簡単なのに、どうして始めることはこんなにも難しいのだろう。小中学生のときに、プールに入る前、冷たい水に少し恐怖したのを思い出した。知らないものを怖がるというのは、現状が崩されることへの怯えであり、知らないものを嫌がるというのは、現状が変わることへの嫌悪である。前者は純粋な恐怖だが、後者は単なる怠惰であって、そして私の抱える感情はずっと後者に近いものだから、どうもやるせなさが募る。別に大層なことでは無いのだ。日々の生活がちょっとだけ丁寧になる、ただそれだけのこと。でも、それだけの変化がどうも恐ろしい。これといった期限を設けていないから、止めようと思えば簡単に止められてしまうことも、生活の怠惰に拍車をかけるのに一役買っていた。ふと変わることの無い自分を見つめては、変わらないことへ失望と少しの安堵を感じる。明日はきっと出来るから、と。慰めにもならない言葉を思っては、明日っていつだよ、と脳のどこかから言葉が飛んでくる。太陽だって毎日生まれ変わるのだから、きっと私だって明日には違う人間になっているのだ。テキパキとやるべきことをこなす自分を想像しようとして、上手く出来なくてやめた。今日のように、何も出来ないまま一日を過ごす私の方がリアルに想像できた。つまりはそういうことだ。

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