ショタに性別はない

1.可変的性別

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。

『第二の性』ボーヴォワール

ボーヴォワールのこの言葉は、何十年も経った今でも十分に有効である。
実際、「女性は女性らしく」というもっともらしく聞こえる教育によって、女性にさせられているのはおそらく一般的な傾向であろう。

ただ1つ疑問がある。
女性になる前の彼女らの性別はいったい何なのか。
もちろん、定義上は女性であろう。しかし、定義の話をしたいわけではない。

例えば以下の作品は、女性と女性らしさについて論じあげている。

〈僕〉が他ならぬ彼女自身の一部だったと気が付いた。
逃避の方便に借りた仮面などではない。間に合わせに築いた堤などではない。
たった今まで胸のここにあった自分の存在の一部だと。

『僕はかぐや姫』松村栄子

松村栄子が新人文学賞をとった『僕はかぐや姫』である。
彼女たちは、〈僕〉であり、〈わたし〉である性別の二面性を持っており、それが女性になる前の女性たちの本質なのであろう。
こうした両性的(無性的とも考えられる)存在からの性別の分科は、画一的なものではなく、自由主義に基づく選択的なものとして考えられるようになってきた。

2.各人が持つ個別の性

こうした(女性的ということ)の否定は、当事者にとって解放にはならず、非本来的な逃避に過ぎない。
自分の性を無視して、自分を位置づけようとすれば、自己欺瞞に陥るのは明らかだ。

『第二の性』ボーヴォワール

この言葉に反して、現代では各人が個別の性を持つという欺瞞がはびこっているように感じられる。
ただ個別の性という考えは、自由なものに見えるし、ある程度は正しい。

弱弱しさ、しとやかさ、上品さといった女性的と言われてきたものと強さや勇敢さ、野卑さといった従来男性的と言われてきたものがある。
これらが性別というものによって強制されるのはまったく正しいことではない。
にもかかわらず、男性はこういう傾向があり、女性はこういう傾向があるので、そうなるように努めなければならないと考えさせられ、自己の性別を認知し、固定化するのが正しいと考えさせられてきた。
このような画一的な性別という壁を取り払い個別の性別を手に入れるということはなんとも甘美な耳触りである。

3.性別から逃れられない

しかし、その壁を取り壊すことはできるが、完全に取り払うことはできない。
人は多かれ少なかれ、身体的な性徴によって、性別の影響を受けてしまうからである。

例として精通前の男の子を考える。
彼らは社会的な、肉体的な性別的分科を受ける前の状態であるが、精通によって生物的に自己が男性であることを抗うことができず認識させられてしまう。
このようにして壮大な(極端に言って尊大な)自然の摂理によって、彼らは圧服させられざるをえないのだ。その姿はなんとも滑稽である。
この滑稽さは、彼らが性的興奮という湧出する内敵になすすべなくやられてしまったからでもなく、自己を男として認識し、性的興奮に耽溺するであろう未来が十分に予見できるからでもない。
その姿は、近代の自由主義が手にしようとした個別の性別という概念が、根底から破壊された証左である。

育ちきった我々は性別という極めて動物的概念から逃れられない。しかし、その身体的桎梏を十分に理解していない無垢な彼らは、そうした類別の範疇には存在しない。
その潔癖性は、我々がもう手にすることのできない神性を帯びているのである。

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