小説を楽しめるようになるまで10年以上かかった話

最近突然小説(昔のラノベ)を読みたい気持ちになった。
きっかけはアニメ見て、そういえば原作揃えていたのに読んでないと読みはじめたのがきっかけ。
なんか驚くほどすらすら読める。楽しく読めるのだ。
それがどうしたと思うだろうけど、これはわたしにとってかなり驚くことなんだよ。
 
作家。この言葉はわたしにとって特別の意味を持っている。そのことを都知事選でひまそらあかねが作家を自称したことに対する反発で気づいた。
わたしにとって作家というのはとても神聖なものなのだ。
わたしは高校生くらいからたぶん作家になりたかったんだと思う(高校2年制の時は、経営者、作家、宗教家が自分に向いて仕事だと思っていた。いまでもこの自己分析は正しいと思っている。去年大川隆法、池田大作あたりをライバル視するようになったが、2人とも死んでライバルがいなくなってしまった)。
作家にはなりたいけど、小説はあまり読まなかった。読まなくても書けるだろうという気持ちもあった(ワナビーによくあるやつである)。
大学生、大学卒業後に村上春樹や東野圭吾、森博嗣あたりを少し読んだけど、売れっ子作家の作品がなんで売れているか参考にするためだった。純粋に面白いから読みたいというより義務的な読書だった。売れっ子作家だから面白いんだけど、読み終わると内容が抜け落ちる。読書というより、状況を理解するために文章を情報処理している感じだ。
 
いま思うとわたしの心の防衛本能が働いていたんだと思う。つまり、他人の小説を高く評価してはいけない、熱中してはいけないと距離を置いていたのだ。
なんだか他人の作品を評価するほど自分の書いているもの、書こうとしているものがダメに感じられる、そんな気持ちわかる人いないかな?
マンガやアニメは本気で楽しめる。でも、小説だけは熱中できない。してはいけない。ひと様の小説にはまると、自分の書いたもの、書こうとしたものがしょうもなく感じられる。
すでに評価されている売れっ子作家なら、面白いと認めても自分が傷つかなくて済む。だから売れっ子作家以外読めない。
要するに、プライドが高すぎたのだ。
実際、わたしは小説を書いても長らく他者が見える形で公開しようとしなかった。賞にも応募しない。他者に評価されるのが怖いから自分の手元に隠す(批判されるのが、ではない。誰かの評価の対象になること自体が怖いのだ。売れっ子作家と同じ土俵に乗るのが、あるいはなろう作家と同じ場所に立つのが嫌なのだ)。
今年の7月にようやくその呪縛から解放された。
それと同時に、人様の作品をみて素直によいとかつまらないとか感じられるようになった気がする。
なんで変わったのか?(あんまり気にならないって? ここまで来たらあと少しなんだから読んでいきなよ)
理由は単純で。わたしは自分の作品に対して、売れているかどうか、批判されるかどうかにかかわらず絶対の自信を持つことができているからだ。
他者と同じ土俵で比べても自分の作品の方が面白いと思い上がっているからほかの作家をライバルだと感じることもない。
いまのわたしは『ハリーポッター』シリーズより自分の作品の方が面白いと言えるし、村上春樹よりさきにノーベル文学賞を取る天才くらいの自己認識にある(わたしは賞が欲しいというより、誰かに賞をあげたい)。
わたしはすでに自分が面白いと思うオリジナル作品を書けているし(未発表含めてわたしの手元にある作品を眺めながら)、上位レベル(売れっ子作家と同じ土俵)でも通用するだろう。だから他人がどう評価しようがわたしは作家として自分の軸をブラスことはない。それほどのこの3年、それと5月6月で作りこんだ。
作品に対する好意的な感想、批判などはご自由に。


いまはとても晴れやかな気持ちだ。他人の作品を嫉妬やプライドを守るというくだらない殻を脱ぎ捨てて読める。
10年以上かかってわたしはやっと小説を楽しめるようになったんだ。

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