歯を抜いた日、「それ自体」の正体

昨日、人生で初めて抜歯をした。

きっかけは久々にクリーニングの予約を入れた歯医者さんで、4本目の親知らずだけ、斜めに生えてきていることが発覚したことだった。

いろいろなことをそりゃあもう考えまくって、苦渋の決断で抜歯の予約を入れて、本当にこの一ヶ月鬱だった。親知らずの抜歯は外科手術に当たるらしい。病院で丁寧に説明してもらった自分の親知らずの生え方について、お医者さんに「難易度で言うと星幾つになりますか」と聞いたけど、笑いながらお茶を濁して「そうねー、ちょっと抜くの大変かなー」と言われていたけど、調べれば調べるほど星5中の良くても星4じゃないかという結論に至っていて、もう、中世の刑罰を受ける覚悟だった。

しかしまあ終わってみると、抜歯、めちゃくちゃ楽しかった。。
と言うか、本当に不思議な経験なんであります。

まず、なんと言っても麻酔。ちくっとした痛みから、先生の言う通りグゥーっと押されるような感覚があって、しばらくするとびりびりしてくる。口をゆすぐよう指示されるも、ほっぺの内側がぱんぱんに膨らんでいる感じで、全然うまくゆすげなくて面白い。

あれよあれよと言う間に「歯茎切るね」「バキって音しまーす」「押しまーす」「これで抜けなかったら歯、割りまーす」「もうちょい骨、削るかー。。」などと承服し難い掛け声があるけども、本当に、何をされているのか全然わからない。感覚がない。感覚がないってこう言う感じなのか、と「感じた」のは、結構後になってからだった。

あまりにも手早い仕草と目配せと判断と嘆息と配慮との連続と、人体に施していいのか?と思う機械音、ウィーン、しゅいーーーーん、がががぎぎぎめりめりめりめり、怖くないようにずっと目を閉じていたけれど、これは明らかに痛みのはずなのに感じない痛み。
痛みを感じないからこそ、今まさに、私は完全な痛みを経験していると、どこかで確かに、強く思ったのだった。

施術中、ずっと先生に言ってみたかった。先生、今なさっているのは、完全な、純粋なる痛みを与えることなんですよ。痛みが痛みであることそれ自体を私は今受け取っていて、その中身も目的も手順も強度も今も未来も、正体は全くわからないけれども、ただこれが、痛みであることだけを知っている。痛みを感じることはできないのに、痛みの外郭だけなのか、いや丸ごとと言ってもいいのではないか?私は今、確かに受け取っている。それってすごくないですか。何人もの患者に先生は行ってきたんでしょうけれども、こんなすごいことって、そうそうないんじゃないですか。


歯といえば川上未映子の小説、『わたくし率イン歯ー、または世界』だ。自分が最も影響を受けたとも言える。あれも痛みをしつこくしつこく描いた小説だった。

ずっと、何かが「それ自体である」ことについてどこかで思いを馳せていて、「それ自体」のみである状態とは、つまり主語を、視点を、視線を、私自身を消してしまうと言うこと。そこから中々、思考が進まなかった。

小説の中では、川端康成『雪国』の冒頭が、「それ自体」として形容される。主語が欠落した、「雪国」が「雪国」自体である、ただそれを表現した文。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

抜歯をしてみて、「それ自体」のみである状態はもしかして、外郭ははっきりとしていて、中身もぎっしりと詰まっているけれども、その中身については誰もどの立場からも表すことができない。(「それ自体」の後に、形容する言葉が何も続かない)しかし中身は透明な容器に入っていて、誰もが見える状態なのかも、と思う。私にとって、抜歯の痛みと、カレーの匂い(長らく考えているのだけど思いつくのが本当にこれだけなのだ)は、「それ自体」だと感じる。おそらく「それ自体」の正体について、私は一生考え続ける。


『わたくし率イン歯ー、または世界』では、最後に麻酔を受けずに抜歯をするシーンがある。

痛みが痛みで、痛みが痛みでありました

今思うとゾッとするシーンだが、圧倒的な痛みを前に「私」なんてものは存在する余地がない。多分そのために、主語をなくせることを確かめるために、彼女は麻酔を受けないことを選択する。
そこで彼女は今まで受けてきた、彼女自身の「痛み」について、ぼやけていた悲しみや苦しみから研ぎ澄まされた「痛み」に、本当に痛々しく純度を上げていく。

ああそうかあれは「痛み」だったのだ、痛かったのだ、思いを馳せるたびに、トイレの床の色や誰にもいえなかった事実や、「私」の顔は、結局ひょっこりと顔を出す。「私」と「純粋経験」なる圧倒的な痛みそれ自体を行き来して、この小説は終わるけれど、私は麻酔をしっかりと受けたけれど、「痛み」それ自体の輪郭に触れた気がして、彼女がうっとりと見据えた世界の収束、多くの人が通る道の選択肢にある「抜歯」がただそれ自体、強烈であって、皆が当たり前のように受けていて、忘れられて、ただそれでも引き続き「抜歯」と言うものは痛みとして存在し続けていて、私はそれを感じられず、あるいは完全に感じたとも言えて、なんともいえない、その後に言葉がぜんぜん続かない、それこそ完全に主語が削ぎ落とされた、ああやっぱり歯を抜くことは稀に見る「それ自体」の一つだったんだわ、と私は突き止めたつもりで、大変に満足。

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