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まだ余生に達していない

昨日は土用の丑の日だったようだ。鰻はけっきょく食べなかった。アルバイト中に「お昼ごはんに何を食べた?」と聞かれたのでホットケーキ、と答えた。マヨネーズとバニラエッセンスが入った、カステラみたいに膨れたホットケーキ。

鰻、で思い出すお気に入りの短編小説を読み返した。江國香織の「清水夫妻」という小説だ。知らない人のお葬式に参列するのが趣味の清水夫妻は、参列後きまって鰻を食べる。遺産生活者の彼らには、なにか別の時間が流れているようだ、と主人公の女性は彼らに惹かれ、次第に彼女も葬式に参列するようになる。

彼らと話していると物事が平明に感じられ、日常の些事がどうでもいいことに思われた。
一方で私は、お葬式に足しげく通う自分に、説明のつかない不安を感じてもいた。死の強烈さの前では、他のすべてのことが色褪せてしまい、恋愛を含む自分自身の日常に、現実感がなくなるのだ。

読んでいると、だんだん死と生のコントラストが曖昧になってくるというか、文字通り現実感がなくなってくる。あと無性に鰻が食べたくなる。一口食べたら満足するだろうし、うな重を食べきれたことはないのだけれど。

誰かが亡くなったとき、まず目の前にあるのはいつだって現実感のなさだ。ニュースで流れる殺人事件だって、身内だって、芸能人だって、どんなに若くても、もう長くないことが分かっているご高齢の方でも、同じように現実感は湧いてこない。居る、と居ない、は、大人になろうが私のなかでは不可分だなあと思う。


清水夫人は「あたしがたのしく生きたことをみんなに憶えていてほしい」と言う。自分の葬式では紅白まんじゅうを出したいらしい。私は「たのしく生きたことを憶えていてほしい」とまでは思わないけれど、自分の葬式がつまらなく長ったらしいのはいやなので、なんかこう、ジュースとか飲みながら、ヒップホップをBGMに出棺に立ち会ってもらえたら嬉しい。

14歳の頃祖父が亡くなって、物心ついて初めて葬式に参列したのだけれど、不謹慎を承知で書くがクソつまらん葬式だった。長いし、大人たちはどこで何回、どの方向に向かって礼をするか簡潔に頭に入れて、25度くらい頭を下げてそそくさと自分の席へ戻っていく。なんだこの時間は、と思った。私は社会に「形ばかりの」がたくさんあることを少しは知った気になっていたけれど、やっぱりうざかったし、追悼というより「うぜー」を込めてゆっくり焼香をすませたことを覚えている。お坊さんがとても良い人で、「美しいお辞儀ですね」と褒めてくれた。「大人たちはあんなに簡単に済ませてしまうのに。堂々としていてすばらしいですよ」。

祖父を悼んだからこその所作ではなかったので居心地は悪かったけれど、私はあんな葬式にしたくないと今も思う。(ツイッターでちらほら見かけたけれど、)テキトーに焼香あげるなら、ついでに悪口もちゃんと言ってくれ。悪口が出てくるようにがんばって生きるから。


清水夫妻は日常に現実感が乏しくなった主人公にたいして、「我々はひととおり経験しつくしたからいいけど、あなたはまだ若いから、困るだろうね」と語りかけ、互いの「経験」(ここでは凄絶な恋愛経験)を語る。恋愛だけが人生のクライマックスの経験になりえる訳ではないだろうけど、私は清水夫妻のように「経験」したから余生を生きるんじゃなくて、気まぐれに余生を生きたり、現実感に身悶えしたりを繰り返していきたい。偶然入った居酒屋の天ぷらが超美味しかったという理由で明日からは余生にしたい。そのうち気づいたら、仕事とツイッターの繰り返しに戻って、日常のゴタゴタに揉まれたい。人生に劇的なことなんかほとんど起こらない。私という人間が、私の人生を生きることで、いくつかの出来事が劇的になっちゃうだけだ。ささやかな出来事を躱したり、抱きしめたりしながら、気軽に余生と行き来したい。そういう意味で、まだ余生に達していない。



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