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私は絵筆を持ちながら骨折した足でマラソンを走る

2023/04/25 3:05

ここ最近は私の仕事が将来私のなんの役に立つのだろうと考えながら仕事をしていることが多いのだけれど、多分私の仕事は将来ではなく現在にフォーカスされたものなのだなと思うことが多く、ミーハーであればあるほど今の仕事はとてつもなく面白いのだとは思う。
逆を取れば今を楽しめなければ絶望的だ。
毎日やることが尽きなく、日々違うことだらけで刺激的。
会社の人はみんな意欲に溢れていて能力が高く、人として成熟している人ばかりだ。
給与も同世代と比べたら高い方だとは思うし、福利厚生も完備の上に、優遇の上乗せも余計なくらいある。
全部私が望んだことが叶っている。
最初こそは前職との違いに浸れていたけれど、わたしがそういうキラキラしたものにさほど価値を感じないだけのミスマッチを起こしていることに今更ながらやっと気づけたというだけだ。
前職は自己肯定感がほぼゼロに等しく自分は会社に依存しなければ生きていけないという諦めがあったからこそ脳死でそれなりにたのしく生きられていたのだと思う。
洗脳なんか解けなくてもよかったのだ。
自尊心がないまま推しに狂って何も考えていない方が幾分幸せだった。
暮らしはそれなりにリッチになったとは思うのだけれど、そのリッチさが自分の身の丈に合っていない。
外食は半年に一回安い居酒屋で好きな人とだけでいい。ネイルもマツエクも服も別にいらない。書籍も図書館で十分。
ただなんでもある静かな町の静かな家のひだまりの中で絵を描いていたい。それが叶っていたのが月に90,000円だけ支給されていたコロナ失業期間で、生活費は家賃合わせても7万円で、残りの2万を貯金に回して20万ほど貯金できていた。それで十分だった。
みんなが楽しめていることを同じように楽しめないというのはなんとも一人きりの孤独より100倍苦しいものなのだと思う。
そういう小さな蓄積に殺されていた。
会社の人と高いご飯を食べて大げさに幸せを感じようとしても、毎月休日に人混みに紛れて美容外科やサロンに通い美容代を消費しようとしても全て作業にしか感じず、絵を描きながらオタクと通話している幸せの総量に勝てるわけがなかった。
1日少量のご飯と娯楽はお絵描きとツイッターと筋トレと日記で、それ以外は何もいらなかった。
「お金はもういらないから時間が欲しい」と口走ってしまったせいで当然のように
「そんなふうに私も言ってみたいよ。」
という言葉をもらい無駄に自分が傷ついた先日の感覚は、「胸いらない」と言った時に「贅沢言うな」と言われたり「身長が欲しい」と言った時に「女の子は小さい方が可愛いよ」と毎度言われる疲弊する決まりきった会話の感覚に近かった。
全部嫌味に聞こえるのなら私の苦しみはどこに出せばいいのだろうか。
会話は難しい。会話なんかできなくても作品だけで対話ができてしまう感覚を長い間知ってしまってからは、会話術やプレゼン術、戦略策定やビジネス用語など今の仕事のために学んだところで、わたしが本当に心地よさを感じる場所では何の意味も持たないような感覚になったりもしている。
日常生きるのに必要ないのならビジネス用語も美術も等しく無意味なもので、優劣さえもないのだ。
そのどちらかに心地よさを感じる人が自分に合った方を選択しているだけで、感覚的に苦しみを感じるのならそれは選択を間違えているにすぎない。
私は絵筆を持ちながら骨折した足でマラソンを走ることを仕事としている状況で、机の前に座りながら絵筆を握る仕事をしている人を横目に羨むだけの滑稽さで生きてる。
同時に健康な足で走りながらも見当違いな場所で絵筆を探している人を遠巻きに冷めた目でみている自分もいる。そういう自分が好きになれない。
高い給料という好きでもない人参を美味しいと言いながら、足が幾分か痛まない日をとても調子が良い日と思い込み興奮から出た一時のアドレナリンに痛みを誤魔化されながら走っている。
ここ半年の私はそんな感覚だ。

もう3時で、またお風呂の湯が冷めて震えながらこれを書いている。
7時に起きて仕事をしなきゃいけないけれど、睡眠時間を削って文章を書いている方がまだ精神がましなので治療だと思って自分を受け入れることにする。
健康に何も残さず日々を過ごせるには私はあまりに考え事をしすぎてしまう。
自制心が時に自分を殺してしまうことを知ったのでもう少しだけ自制できないダメな自分を意図的に認めたいとも思ったりしている。
夜ふかしが楽しかった頃を1日でも早く思い出せることを願っている。
今のこの時間は少し楽しい。それでいい。

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