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太陽

「フレデリック!」
屋上の縁から飛び降りようとする少年に向かって僕は力一杯叫んだ。
「僕は君を、君だけを愛していたんだ! 他の何よりも、誰よりも! そうさ、僕の世界が輝いていたのは、フレデリック、君が隣に居たからだ。君が隣で太陽となって僕のすべてを照らしていたんだよ」
枯れた喉を引き絞って僕は叫んだ。
頬が冷たかった。風に吹かれた涙が頬を伝って落ちた。尽きることのない涙をしきりに袖で拭った。彼に泣いている無様を見せたくなかった。
フレデリックは僕の叫びに驚いて振り返った。夕映えが彼の瞳を深紅に染める。
悲しそうな目をした彼の口元にはやるせない「 しょうがないな」とでも言いたげな微笑が浮かんでいた。張り裂けそうに胸が苦しくなった。
僕を眼差す彼の、神々しさを感じるほど澄んだ瞳はもはや僕を写していなかった。
あたかも僕が象徴する日常を、現世の日々を懐かしんでいるようだった。
彼の心はすでに死んでいた。
僕はそれをずっと前から知っていた。
何もできない僕は、せめて彼を精一杯送り出したかった。
愛する恋人の再期を華々しく飾りたかったから。
「来世でまた会おうよ」
フレデリックは僕に向かって言った。
行かないで欲しい。明日も一緒に学校に行こうよ、と口から出そうになるのを必死に飲み込んだ。
あの日々が、僕たちの春夏秋冬が、はるか昔の美しい夢のように思い出されて、僕の心に迫ってきた。
フレデリックは僕を慰めるように言った。
「僕たちは……僕たちはいつまでも恋人だ。トム。君は僕にとっての岬だった。帰るべき場所だった。嵐の中で唯一心休まる場所だった。まばゆい光をはなつ波たちが君の元に押し寄せては海へ帰ってゆくんだ。
君の胸に抱かれて泡沫と消える波の一条が僕だったんだ。トム、悲しい顔は止してくれ。僕はね、いま晴れやかな気分なんだ。本当に、地上に開かれたすべての扉がいま閉じていくような気分なんだ。恐ろしい扉、楽しい扉、悲しい扉、憎い扉、嬉しい扉…….すべてがゆっくりと閉じて行く。僕の未来が閉ざされて、過去が今この瞬間に収斂されてゆく……。トム、君に逢えて良かった。僕を太陽と言ってくれたね。僕が太陽でいられたのは、誰も焼き焦がさず済むよう沈むべき海を君が用意してくれたからなんだ」

フレデリックはそう言って、屋上の縁に立った。夕日を背景に人影となった彼の姿は、宗教画のように神聖な美しさを放っていた。
「トム。僕は君を愛していた。そしてだからこそ、僕は死なねばならない」
そう告げると彼は音もなく、身体をよろめくように前へ倒れた。彼は地上へ落ちていった。
「フレデリック……!」
僕は思わずその場で手を伸ばした。
誰も居ない学校の屋上に僕の声が虚ろに響く。宙を掴んだ手は力なく下ろされた。
階下からは下校中の生徒たちの悲鳴の声が聞こえてきた。やがて先生たちのどよめきも伝わってきた。
まもなくして、学校前の交差点の先から救急車のサイレンが聞こえてきた。
途方もない空虚感の中で、僕はただ立ち尽くすほかになかった。
急速に世界からすべての輝きが、それどころか色までもが失われていくようだった。
「嗚呼、僕は太陽のない暗黒の中でこれから何のために生きてゆけば良いのだろう」
ビー玉のような目で空を見上げた。
すると、一匹の鳥が僕の頭上を掠めて、屋上の縁に留まった。
側には小さな鳥の巣があった。雛たちが親鳥の咥えてきた獲物を取り合ってしきりに鳴いていた。
太陽のない世界でもすべては滞りなく、生きることを続けていた。

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