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【第二話】魔女はかく語りき


暗い。視界に映る全ての明度が暗く、色を失っているようだった。
心の縁には、ただ虚無が広がっていた。
ただ無感情だった。
いまは、なにも恐ろしくもなく、身体中の痛みすら感じなくなっていた。
頭の中を生暖かいベールが覆っているように、何もはっきり考えることができなくなっていた。
気がつけば、学校の屋上にやって来ていた。
ここは、かつて眺めの良い場所だった。心地よい風が吹いて、遠くで鳥が鳴いていた。
群青の空には大きな入道雲があった。
いまもそれは変わらない。
しかし、いまや何も感じなくなっていた。
すべては私の精神を揺るがす莢雑物に過ぎなかった。
美しいものを見て揺さぶられる心は、穢れたものを見ても同様に揺さぶられてしまう。
虚無で心を満たさなければ、心と身体の痛みに耐えられないのだ。
だからもう――――――私は感じることを辞めた。
望むのは、ただ苦しみからの解放だった。
気がつくと私は、欄干を乗り越えて屋上の縁に立っていた。
ここから一歩踏み出せば、私は終わるのだろうか。頭が回らない。
もう、考えるのは疲れた――――――。
「――――――本当にそれで良いのか?」
背後から男の声がした。
思わず振り返ると、背広を着た男が立っていた。彼は私に手を差し出して言った。
「共に復讐をしよう」
男の低いざらざらとした声は、私の虚ろな内によく響いた。どうしてか、この人は私の全てを知っているような気がした。初めて、父親に出逢った。そんな安心感を抱いてしまった。彼ならば、あるいは私を救ってくれるのかもしれない。
私は、一縷の望みをかけてその手を取った――――――。


あれから数日経って、頑として自称魔法使いである彼女からの要請を断っていた僕だったが、学校で会うたびに各種の嫌がらせ(蛹を入れた便箋を送りつけられるだの、机の中に幼虫を入れれるなど)を受けた末、半ば強引に連れられる形で彼女の家に訪れたのだった。

僕の立てた予想に反して、彼女の自宅は平屋造りの日本家屋だった。
魔法使いと云うから、洋館にでも住んでいるものとばかり思っていた。
いささか過ぎた先入観だったが、やはりそれなりに歴史ある家柄らしい、大理石の堅固な門を潜ると、丹念に剪定された松林が敷石を避けて連なり、端には鯉の泳ぐ溜池が見えた。この前庭の有り様からして、敷地面積はかなりのものと想像に固くない。

玄関扉の表札に『九曜』という文字を見た。
なるほど、いかにも名家という名字である。彼女が玄関を開くと、奥から犬がきゃんきゃんと吠える声がした。やがてすぐに、黒い小柄な柴犬が奥から駆けてきた。
彼女は無造作に靴を脱ぎ散らかすと、主人に甘える犬を鬱陶しそうに足蹴にして、奥へと上がっていった。
玄関の靴は、彼女の散らばったローファーの他に、女もののブーツと下駄が一足あるのみだった。家人は留守だろうか。
僕は彼女に続いて家に上がった。
綺麗に磨かれた長い板敷きの廊下を進み、
突き当たりにやってくると、彼女はおもむろに障子を開き、僕を顎で中へと促した。

「ここが、九曜の部屋?」

僕が尋ねると、彼女は不愉快そうに眉をひそめて云った。

「・・・・・・私のことは耀子と」

ほぼ初対面の同世代の女子を下の名前で呼ぶのは、いささか面映ゆい思いがあった。
だが、それを悟られても癪だったので、努めて平静に、僕はその申し出を受け入れた。

「ここ、耀・・・あー、お前の部屋?」

僕が言い換えたのを見逃さず、彼女は大きな眼を見開き、悪戯っぽく笑って、私の顔を覗きこんだ。

「はは、心拍数は嘘をつかない。君、ウブなのだろう。私にはわかる」

彼女の左目の泣き黒子が笑う度歪んで見えた。
・・・業腹だが、こちらの心情が露呈してしまったようである。しかし、ここでしらばっくれる真似をすれば、彼女の言を暗に認めることになってしまう。
かといって、正直に打ち明けるのも白旗を挙げたようで、なんだか癪に障る。

「―――おい、何を熟考している。さっさと、中へ入りたまえ」

業を煮やした様子で彼女は云った。

「―――気にすることはない。ここは私の工房(ラボ)。化学者で謂うところの実験室だよ」

まぁ、私も乙女の端くれ。若い男の気の迷いの恐ろしさは、よく理解しているからね。
いきなり部屋にあげるなんて節操の無い真似はしないよ。
彼女は呆れたように、肩を竦めて言った。

「大した観察眼だ。その卓越した分析力があれば、僕の手を借りずとも事件を解決できるのでは?」

僕はなお食い下がった。僕の安いプライドを以てして、彼女の独壇場にしておくわけにはいかなかった。

「解決、ねぇ・・・・・・」

彼女は目を細めてそう呟くと、部屋の襖を開き、物色を始めた。
取り出した中でも一番上等な座布団を自分の足元に置き、一番シワのよったみすぼらしい布切れをこちらに投げて寄越してきた。
彼女に客人に対するホスピタリティを期待したのは間違っていた。
しかし一応礼を言い、布切れの上に腰を下ろす。全く意味のない敷物である。むしろズボンに埃がついて汚れそうだった。

「・・・・・・おりゃ!」

彼女が立て付けの悪い襖相手に踏ん張っている間に、ぐるりと部屋を見渡してみた。
四方を土壁に囲まれ、奥に床畳、その上に床の間が、違い棚があり、すぐ横には明かり取りの小さな障子がある。
掛け軸や壺の類いは置かれていない。
中央には囲炉裏を配し、天井から伸びた自在鉤の先には、底の煤けたヤカンがぶら下がっている。しかし、囲炉裏には炭がなく、灰もない。それを除いては、やや殺風景だが、一般的な書院造りの和室だった。やはり彼女の云うように、生活のスペースではなさそうだ。

「――――――洋館にでも住んでいると思っていたかね?」

視線に気がついたらしい、襖を元に戻した彼女は楚々とした所作で座布団に腰を下ろすと、湯呑みに茶を注いだ。無論と云うべきか、僕の分は無かった。

「ああ。けれど、当たるとも遠からずだ。先祖は地主か何かなのか?」

「さぁ、どうだかね。歴史だけは古い一家なんだ。不要な土地をあちこち所有しているらしいが。まぁ、そんなもの末席を汚す私を最後に、手放すことになるのだけれど」

自嘲気味に彼女は云った。

「・・・どうして?」

「・・・・・・・」
彼女は僕の問いに答える代わりに、僕の顔をじっと見つめてきた。
西洋人形のように目鼻立ち整った顔立ち。
濡れ烏の尾のような見事な漆黒の長髪をなめらかに背中に垂らし、制服の袖から覗くほっそりとした腕は血管が浮き出るほと透き通った陶磁器のように白い肌である。彼女のどこか影の差した容姿は、人には病気がちの薄幸の少女に映るだろうが、彼女の瞳の光と彼女の高飛車な言を前にすれば、一様に覆されるだろう。
しかし、今やお喋りな薄く赤い唇はきつくつむがれ、先程までの饒舌さは跡形ない。
眉を寄せた黒い瞳は、それ以上は聞くな。と忠告しているようだった。自分で話した癖に、どこまでも自分勝手な奴である。

「ところで君、例の髪の毛は持ってきたのだろうね」

僕は気を取り直して、ポケットからティッシュの包みを取り出して見せた。

「―――よろしい。では、それをそのヤカンの中へ」

そう言うと、彼女は部屋の中央で揺れるヤカンを指差した。
魔法使いのように儀式でも始めるのだろうか。「早くしたまえ」と彼女が急くので、考えるのを後に、ひとまず包みをヤカンの内に入れて蓋をした。

「よし。では――――――」

彼女は立ち上がり、僕ににじり寄ってきた。手には刃を出したカッターナイフが握られている。
「逃げるんじゃない。なーに、少し血を貰うだけさ」

ほら、大人しくこっちにきたまえ。手元が狂うと大事な器官を切り落とすやもしれん。
彼女は後ずさる僕に、猫撫で声を出して手招きをした。イカれてるとは思っていたが、流石にここまでとは思っていなかった。さっさと、縁を切らなければ今より酷い目に遭うだろう。僕は足早に背後の障子に手を掛けた。

「この儀式には少量の血液が必要なんだ」

「なら、お前の血で良いじゃないか」

「術者でなく、かつ被術者でない人間の血が必要なんだよ。はぁ、いいかね―――」

彼女はため息混じりに、これから行う儀式の説明を始めた。正直、詳しい所は僕には全く理解ができなかったが、あの女学生を救うために必要らしいことは分かった。

「―――わかった。やる。血をやるよ。それでお前とはおさらばだ。」

「では失礼して―――」

彼女は恐ろしく早い手際で僕の腕をわし掴み、さらさらと皮膚に刃をあてがった。
どこか楽しげな様子である。

「―――その前に!・・・彼女が一体なぜあそこまで追い詰められていたのか、俺にわかるよう説明してくれ」

ワケもわからないまま身を犠牲にするのは嫌だ。「・・・・・・良かろう」僕の剣幕に流石に思うところがあったのか、彼女は身を引っ込めて、座布団の上に座り直した。

「彼女は、日常的に父親に強姦されていた。――――――」

彼女はそのおぞましき真実を実に淡々と語った。さして珍しくもないといった口振りで、台本でも読み上げるように。

「――――――母親は居らず、唯一の救いは恋人と幼い頃から苦楽を共にした飼い猫だけ。しかし彼女と寝ようとした恋人は、彼女の身体に刻まれた無数の卑猥な傷を目撃した。
そしてあろうことか、彼女を売女と罵り、以降関係を絶った。――――――」

息を飲むような壮絶な話だった。彼女が言葉を綿々と紡ぐ度に、部屋は水を打ったように静まり返っていくように感じた。

「――――――その日から、クラスでは虐めが始まった。愚にも元恋人が言い触らしたのだ。彼女は健気にもそれに耐えた。虐める側はそれが面白くなかった。やがて、クラスメートの一人が街の不良集団に頼んで、彼女を痛め付けることにした。
不良達は面白がって彼女をいたぶった。やがて、彼らはこともあろうに、彼女の前で彼女の猫を殺して見せた。それを最後に、彼女は壊れてしまった。
そして――――――」

彼女は芝居がかった様子で立ち上がり、両手を左右に伸ばし、飛び降りる真似をした。

「――――――投身自殺したのさ。十年前の、丁度今頃の話だね」

「ちょっと待ってくれ。自殺したって云ったのか今・・・!?」

背を這う悪寒を抑えながら彼女に問うた。 
直後、彼女はニタリと笑った。
そして想像したくもない事実を、彼女は得意気に語った。

「嗚呼、云ってなかったね。彼女は、もう死んでいるんだよ」

「なにを・・・バカな」

女学生のことを思い出す。
あれは確かに生きていた。弱った様子だったが、少なくとも僕にはそう見えた。

「嘘だと思うのなら、君の持ってきた包みの中身を見てみたまえ」

彼女に促されるままに、震える手でヤカンの蓋を開いた。くるんだティッシュを剥くと、中から水分を失って萎れた糸きれが出てきた。よく見ると、それは水分を失った髪の毛に違いなかった。とても生きた人間のものとは思えない。死人の頭から抜いてきたようだ。
気色悪さに耐えられず、僕は思わずその場に投げ捨てた。
常識外れの自体が続いたせいか、混乱で頭が痛い。気分が悪い。胃が傷んで、ひどく吐きそうだった。
そんな僕の様子とは裏腹に、彼女は鼻歌交じりに箪笥の引き出しから茶菓子を取り出し、皿に取り分けながら、呑気に茶をすすっている。

「じゃあ、なんだ。お前はもう死んでいる彼女の、最後の願い、復讐の願いを叶えて、少しでも救ってあげようっていうのか」

絞り出したせいで、掠れた僕の声が彼女のツボに嵌まったのか、息を殺して笑い出した。

「ふふふっ・・・!――――――」

冷水をかけられたように硬直する僕をよそに年相応の少女のように畳の上で息も絶え絶え笑い転げている。

「――――――あははは!! ・・・・・・ああ、全く何を云い出すかと思えば。・・・・・・いいかい、復讐というのはね、実行者と被害者、両者の存在によって初めて成立するんだ。両者がこの世に存在しない、この状況で一体どうやって復讐を成立させるというのかね?」

そう言って彼女は指で涙を拭って居住まいを正し、皿の上の羊羹をカッターナイフで細かく切り、口に運んだ。
昇り立つ甘い小豆の匂いに、酷く苛立った。
よく平然と菓子などを食ってられるものである。この女の神経が知れなかった。
けれども、かえってその匂いによって冷静になってきた。両者が存在しないと彼女は言った。つまり、亡くなった彼女に加えて、件のクラスメート達ももうこの世には居ないということである。

「・・・お前が今からかけようとしているのは、一体なんの目的の魔法なんだ」

羊羮を一口食べ、表情を綻ばせた彼女は、
「先刻云っただろう。彼女を救うため、さ」と云う。

「しかし――――――!」

彼女はもう死んでいるのだ。救いなどありはしない。

「この儀式は、厳密には魔法ではない。いうならば、《こっくりさん》のような、《呪い(まじない)》に近い」

彼女は再びカッターナイフの刃を出して、僕に近づいてきた。
「彼女は、死ぬ直前に《呪師(まじないし)》に復讐を依頼した。しかし、運が悪いことに依頼した《呪師》は素人同然だったのだろう、術は不完全な形で機能した。
結果、《呪い》は完遂されぬまま今も校舎に残留した。いまの彼女は、彼女の想念で産まれた《呪い》そのものなんだ」

あの時見た女学生の姿が生前と変わらなかったのは、呪いをかけた瞬間のまま時が止まっているためなのだろう。

「術を終わらせるためには、《呪師》のありかを特定しなければならない。この儀式は、そのための《呪い》だ」

彼女を呪いから解き放つためには、君の助けが必要なのさ。
彼女は僕の目をまっすぐ見て云った。
彼女の言葉には、どこか胡散臭いものを感じた。土台、これまでの彼女が人助けを喜ぶとも思えない。
しかし、困ったことに気の毒な女学生の話を聞いた僕の胸の縁には、にわかに彼女を救ってやりたいという、わずかばかりの同情心、あるいは正義感のようなものが浮かんできていた。
超常現象や怪綺談などは、詰まらないテレビ番組のネタだけで沢山だが、多少の血を与え、多少の人助けをする分には、まあ、暇潰しや良い話のタネにはなる経験だと思った。
僕は息を飲んだ。
腕の表面を切るよう、指を指し彼女に促した。
彼女は目を輝かせて、頷いた。
肌の上をカッターナイフが通過する直前、彼女は尋ねた。

「――――――念のため聞いておくが、貴様、名は何という」

なんと高飛車な奴だろう。
街で出会った犬の飼い主に名を尋ねるときの方がまだ礼儀正しそうなものである。
僕は彼女に名前を告げた。

「――――――なるほどつまらん名だ。だが、お前らしい。お前のような性格の標本があったのなら、学名に選ばれるだろうな」

かくして、僕は気まぐれに起こした正義感から、この高飛車な、人でなしの魔法使いの女と一時的な協力関係を結んだのだった。


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