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津久井やまゆり園事件初公判の日

本日、津久井やまゆり園の入所者殺傷事件の植松容疑者の初公判が行なわれました。公判の状況は報道でもあるように、植松容疑者が容疑を認めた後に自分の指を噛み切ろうとし、15分で退廷。午後から容疑者不在で公判が続き、弁護団が無罪を訴えたとのこと。

弁護団は色々と意見を述べてくるでしょう。でも、おそらくは容疑者には事件の計画性の高さ、言葉でやりとりの出来ない入所者を中心に殺害をするなど、責任能力は十分に問えると思うので、極刑は免れないでしょう。

公判の推移は見守るとして、私が恐れていることは別にあります。
それはこの事件が起きた時に、容疑者の「意思疎通のできない障害者は不幸を生み出すので要らない」という思想に多かれ少なかれ共感する人がいるということです。すごく現代の日本は怖いと感じました。
もし、彼のような思想を持つ人が同じような事件を起こし、しかしながら被害者が少なく有期刑で社会に出てきたとしたら…障害福祉に携わる者として、どう犯人に関わっていけるのだろう…そんなことを、ずっと考えています。

私は、それこそ言葉でのやりとりが出来ない、自傷や他害、物損行為など行動障害のある方の支援をしてきました。しかし、色々な課題はあっても人として生を受けた以上、緩やかな成長に喜びを感じたり、定型発達と言われる私たちの想像を超える表現を見た時の感動や衝撃を多く体験してきました。重い障害があっても、周囲の対応次第で彼らの生き辛さを軽減したり、内に潜む才能を表出したりすることが出来ると思うのです。

先日、ネット上で脳性麻痺の方がバスの乗車を断られたという記事を見ました。バス会社は謝罪をしていましたが、その記事に寄せられたコメントの多くが「(乗車の対応をして)バスのダイヤが遅れたら、どう責任をとるのだ」「タクシーを呼べば良い」など、非常に冷たいと感じるものでした。確かにそういった感情も理解出来ない訳ではありません。でも、「日本人はいつからこんなに他者に冷たくなってしまったのだろう」と感じました。
30年以上前、私が通っていた高校には車椅子の同級生がいました。しかし、学校にはエレベーターはおろか、スロープもほとんど設置されてませんでした。教師は入学を許可した理由は「試験にパスしたから」とシンプルに答えました。さらに(バリアフリーととても言えない環境であるけれども)「あとは生徒を信じることにした」と言いました。
「障害の有無に関わらず、当たり前に人として受け容れる。」今のように発達障害などが明確に診断されていない時代の方が、障害など感じずに他者を受け容れていたのかもしれません。

確かに精神疾患や発達障害のある方が残酷な事件を起こすと、必要以上にクローズアップされてしまうので、植松容疑者のような思想を抱く人が少なからずいるのかもしれません。でも。実際は病気や障害などが確認できなくても、残酷な犯罪を起こす人の方が多いことはあまり報じられていません。

もう少し、何らかの障害のある人に対して柔軟に接する社会が出来れば、残酷な事件も減ると思うのです。人間誰しも存在を否定されるような対応や言葉を浴びれば、自己肯定感が弱くなり、社会への反発感情が強くなるのではないでしょうか?
個人的には、思春期に差し掛かる頃には人間の多様性や障害とは何かを伝えていく機会を一定時間持てると良いのではないかと思っています。

うまくまとめきれず、長々と失礼しました。

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