その水になじめない魚から人文が生まれる?


 頭木弘樹のエッセイに「その水に馴染めない魚だけが、その水について考え続ける」という言葉があるという。この言葉について先日友人と考えた。
「自分がいる環境に、何の不満も疑問もなかったら今頃何をしていたと思う?」
「間違いなく人文には関心がなかったと思う」
などと話しながら大津市のショッピングセンターのエスカレーターを上がっていた。

 水に馴染めていたら......環境に疑問を持たなかったら、私自身はまず間違いなく人文には関心がなかっただろうが、疑問を持ったとして必ずしもそれが人文に向かうとは限らないのではないか。
友人はそこで姫野カオルコの小説「彼女は頭が悪いから」の話をしてくれた。その小説は実際の事件に着想を得た話で、東大生5人が女子大の学生に強制わいせつ事件を起こしてしまうという話だ。この東大生たちは理系なのだが、随所で「文学部」や「人文」をバカにした態度をとる。印象的なものをいくつか紹介する。

エノキは、「これ、要らない」になった女子をなだめるという行為を何度も体験することにより、卑屈の精神が育成された。
卑屈の精神も、不屈の精神で磨いていると、卑屈のかさぶたがとれ、新たな境地になるケースもおおいにあり、それが人文がなのだが、やはりエノキも、日本一入るのが難しい東京大学の理Iに入った優秀な理系学生なので、下級な人文とは無関係だ。

工学部のつばさにとって文学部は最下位の学部だ。

「彼女は頭が悪いから」姫野カオルコ

 ちょっと笑っちゃうくらい酷い言われようである。おい姫野カオルコ、文学部当事者だからと言ってここまでバカスカ言っていいわけじゃないねんぞ。
 とりあえず、文系理系うんぬんには私も一家言あるので、ひとまず置いといておく。

 姫野カオルコが言うような「人文が生まれる機会」というのはおそらく多くの人に訪れる。その訪れた機会を日常の中に沈めて馴染ませていくのか、殊更に取り上げて思考を続けるのか、その違いはどこから生まれてくるのか。生まれ育った環境や境遇だけではなく、「そういう魚だった」というのもあるのだろう。おやっ、と思ったことを拾いあげて思考し続ける、そういう面倒な性分をたまたま持ち合わせた魚だったのだと思う。

最近ちょっと結婚に関して「おや、こいつは妙だな」と思ったことを仲良しの料理人のおじさんに長々と語ったところ、「そんな面倒な屁理屈こねまわすくらいなら、結婚しなきゃいいやろがい!」と言われた。すみませんね。

子どもの頃から、そんな風に面倒くさいことばっかり考えて生きてきたから、そういうことを考えてる人の存在を人文学を通してたくさん知ることができて、とても幸せだと思う。けどたまに自分が面倒くさすぎてほとほと嫌気が刺すこともあるし、友人にめんどくさそうにされることも全然ある。ごめんね

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