背景、無臭の世界より

コロナにかかって、嗅覚が消えた。
消える消えるとは聞いていたものの、まさか本当に消えるとは。
ちょうどコロナにかかる前日に、誕生日プレゼントとしてビュリーのボディオイルをもらったのだが、ジャスミンとローズの芳しい香りを堪能できたのはたった1日だけだった。

発症当初は、たしかに匂いを感じていた。
コロナといえば、困った症状としてよく話に上がる味覚・嗅覚の消失だけども、その辺りは平気でよかったなあとベッドの中で寒気と戦いながら考えていたのだ。
異変に気がついたのは、高熱や喉の痛みなどの症状が落ち着いてきた頃だった。
はじめは何かちょっと変、程度の違和感。フィルターを一枚通しているように、大雑把にしか匂いを感じない。
翌日、翌々日と「ちょっと変」は積み重なり、フィルターが少しずつ分厚くなっていくみたいに、熱が下がって3日目にして、私の世界からは匂いが完全に消失した。

幸い味覚は残っていて、甘い・しょっぱい・苦い・すっぱい……どれもはっきりと認識できた。けれど、何を食べても大味に感じるのだ。多分、匂いがないせいで繊細な味わいが失われてしまっていた。
食材ごとの細かな味の違いが分からなくなると、食事の楽しさは半減した。どうせ何を食べても大まかな味わいしか感じられないと思うと、なるべく安いカップ麺なんかで食事を済ませたかったが、途中で食料が尽きてしまって、いつかのためにと取っておいた(私にしては)上等な買い置きに手をつける羽目になったのは悔しかった。
あのドレッシングは、もっと美味しかったはずなのだ。

何よりも辛いのは、大好きなコーヒーを味わう楽しみが失われたことだった。
マニアを名乗れるほど詳しくはないが、私はコーヒーが好きだ。毎朝豆から挽いてドリップしたコーヒーを、1日かけてゆっくり飲むのが日課だ。
コーヒーを飲まない日はなんだかそわそわして、中毒というほどではないにしろ、コーヒーの味よりもカフェインを身体が求めているのではと少し心配になることもあった。
しかし、私が求めていたのはカフェインそのものではなかったらしい。香りが失われた世界では、コーヒーの魅力はまったくないに等しかった。多少の苦味はあるにしろ、それは旨みにはならなかった。水のようなカフェインでは私の欲望は満たされず、また、身体もそれを求めなかった。
何年かぶりに、数日間に渡ってカフェインを1滴も取らない生活を送った。好物を美味しく感じられないのは辛かったが、カフェインを摂らなくても私の身体がブルブル震え出すようなことはなかった。
私はカフェイン中毒じゃないんだ!よかったよかった。……そう思わないと、流石にやっていられない。
1日でも早く、コーヒーを美味しく飲みたい。無臭の世界において、一番の望みはまったく、それに尽きる。

とはいえ、私はこの不可思議な無臭の世界をそれなりに面白がって過ごしている。
この28年の人生で、何不自由なく胸いっぱいに鼻から息を吸い込めるのに、匂いだけがまったくしないなんていう経験は初めてだからだ。
世界から匂いが消えた、と気がついた時、一番最初に試したのは納豆パックを開けることだった。納豆の独特な臭みを一切感じなかった瞬間の衝撃は忘れられない。
今なら納豆で顔が洗える、と思った。もちろん、やらなかったけれど。
翌日には、辛味の強いカップ麺を買ってきて、ほかほかの湯気を心ゆくまで吸い込んでみた。普段なら辛い匂いに反応してすぐ咽せてしまうのに、全然平気で面白かった。鼻の奥がツンと痛くなるまで、私は湯気を嗅いでいた。ちなみに、湯気で咽せない分、麺を啜るのも幾分か楽だった。
いつもなら息を止めてしまうゴミ捨て場でも、いつも強烈な匂いで誘惑してくるケバブ屋の前でも、私は日常のあらゆるシーンの中で、思う存分に無臭の世界を楽しんだ。
5感のうちのひとつ、匂いという大きな情報を失った世界は、いつもよりも静かに感じられる。

大好きなコーヒーブレイクや日々の食事、お出かけ前に振りかける香水やお気に入りのルームフレグランスを愛でる楽しみが無い世界はつらくて、悲しい。
けれども、28年間の当たり前が突如失われた世界を生きるというのは、いつもの日常に新たな彩りも添えてくれるように思う。

実はというと、こんな呑気なことを書いていられるのも、この世界の終わりが徐々に見え初めているからだ。
最初は焼きそばだった。5日ほど前に、炒めた焼きそばを皿に盛る一瞬、ふいに焼きそばの匂いが鼻をかすめた。記憶が見せた幻影を疑うほどの刹那だったが、私はあの時、たしかに匂いの尻尾を見たのだ。そして、それを掴み損ねた。
あれ以来、匂いの尻尾は私の生活の中で気まぐれに現れては、ゆらゆらと揺れている。尻尾が姿を見せる回数も、それに触れられる回数も確実に増えてきている。
私は数日のうちに、匂いの尻尾を完全につかまえるだろう。無臭の世界の出口はきっともうすぐそこだ。そう信じて、私は今日も大きく息を吸い込む。今のうちに排水管の掃除とかしようかな。

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