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20年以上、パニックな私を支えてくれたもの

19歳の頃、私は突然パニック障害になった。

1999年の4月の下旬だった。

症状はあまり書かないようにする。当時は掛け持ちで働いて、バンドやって、スタッフやって、友達と遊んだり、家になんていつ帰っていたのか分からない程24時間フルに使っていたから不摂生が祟った事にしておく。

久しぶりに会った母に症状を伝えると、翌日精神科にケンカしながら引き摺られていた。

カウンセリングも診断も嫌で嫌で仕方なくて、それでも天地がひっくり返るような感覚をどうにかしないと、数時間後のスケジュールをこなせないからと、医者と向き合った。

「1年から3年、もしかしたら10年かかるかも」

と伝えられた時は絶望しかなかったし、それからの数ヶ月は病みに病んでよく覚えてないが、毎週ごとに増えていく薬の量と比例どころではない私の服薬回数は、どうしても失いたくない【日常】を繋げる一縷の望みにしか取れなかった私のワガママだ。短絡的で、大事にしていた【日常】なんて脆く崩れる砂浜の城だった。

パニック障害と鬱とかなんか言われたけど、そんな事より、病気の事を知らない人達の心無い言葉の方が辛かった。

精神病なんて言いたくなかった。

私自身受け入れられてなかったから仕方もない。

薬を飲めば日常は過ごせる。副作用がどうしたクソ喰らえ。

これがやけっぱちの悪い例だったけど、どん底が気持ちよかった。目を開けたらどこにいるのかも分からず怖かったけど、死にたくはなかったと思う。

まだ、死にたくなかった。死にたいくらい嫌な気分だったけど。

リスカは痛かった。飛び降りも泣いちゃって出来なかった。成人前のいっぱしの女性の歳なのに大甘ちゃんだった。

起きたら外とか、駅とか、公園だったりしてたけど帰る家と眠る布団があって本当に良かった。

ワガママなまま、3年がたった。【日常】は少しだけ変わったけど、最悪であり最高でもあった。1年経って変化が無かった時には強く居れるよう、背中に絵を描いてもらった。

そして私は診断を下した医者と向き合って

「3年たったけど、なんも変わらんよ」

と伝えた。医者の返答はなんとも言えないだった。から病院を変えた。変更先のカウンセリングした医者は院長だった。私が最初に言った言葉はよく覚えてる。

「この薬があれば大丈夫。シャブみたいなもんでしょ?だって無きゃ私多分死ぬわな。だってなおらないんでしょ?この病気。」

と、俯いた体を首だけ起こして睨みつけながら言い放った。思い返すと狂ってる。

院長は困ったような笑顔で私に語りかけていた。

院長にはこの先10年以上お世話になる事になる。

10年で随分変わった。決して褒められた10年ではなかったけど。

投薬法を変えてもらい、鬱状態からは抜け出せた。ずっと優しかった。娘氏がお腹に居た時は産婦人科と連携を取ってくれて、無事出産することも出来た。産まれたての娘氏を連れて通院すると、患者も受付も笑ってくれた。

院長先生は3・4年前に病気で亡くなった。

私は今もパニック障害のみ持っている。そして日常は今の所多分普通に過ごせている。そして月イチで毎回同じ病院へ足を運ぶのだ。めんどくさいけど嫌ではない。

感謝している。毎日飲んでいるこの薬に。20年以上私を支えてくれている。

今、現代病なんて言われているこの病気だけど、かかってしまった人は少しだけタイミングが悪かったんだと思って欲しい。誰にでも起こる脳の病気だから。ショックを受けると思うけど、時間をかけてゆっくり向き合って欲しい。めんどいよね。超わかる。

希望とか前向きになれとか言わない。

どんな病気にかかったって嫌だもんね。

最後まで読んでくださった方、私の人生吐露に付き合ってくれてありがとう。書きたくなったから書いてみた。




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