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夜明け前の赤と紫のグラデーション

クラシック音楽の批評には「精神性」という言葉が頻繁に登場する。これって「よく分かんねーけど、すげー」とかいう程度の感想でしか過ぎず、音楽を言語化する努力を放棄し、自意識だけが拡大していった人々が好んで使うキーワードだ。「精神性」、憶えておいて欲しい。しかし、ケンプのこの晩年の録音を聴いていると、そういった表現が妥当とも思えてくる(私が言及しているのは、特に16曲目以降のケンプ自身の編曲についてのもので、これはレコードで1枚にまとまっている)。このバッハはいわゆるバッハの音楽の傾向にある峻厳さや祝祭といったものではなく、ある種まるでロマン派の作品のようでいて、真夜中の闇の色から夜明け前の赤と紫のグラデーションへ変化していく空の色に沈んでいく自身との対話のような、誰かを探しているとその誰かが角を曲がって消えていく姿を一瞬だけ見たような、この音楽の風景には自分と漠然とした自然以外何も存在しないような、それはまるで祈りのような音楽なのだ。世界に名を馳せたヴィルトゥオーソが晩年を迎え、自分の好きな曲を、自分の好きなように、自分のためだけに演奏した録音(もちろん、デビュー間もない若造がバッハを自身の編曲で非技巧的に演奏したアルバムをリリースすれば、それはキャリアの終焉を意味するだろう)。そのような奇跡的な盤に出会えるのは、一つの可能性を持った僥倖の形態だったのかもしれない、ルカ。


音楽と音楽の記憶とそのメモ。