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ロマンティストとリアリスト。

銅が加熱によって酸素と結びついて酸化銀になる。中学の理科でおなじみの、味気ない化学の基本の問題。
大人、子ども関係なく、この問題をどうやって解くかで解く人の性格をすこし覗き込めるとしたら。みたいな話を今日のオンライン授業でしていたら、予想もしていなかった反応が生徒からあって、少し驚きつつもなんだか嬉しかった。

たとえば

Q 4.8グラムの銅を加熱して酸化銅をつくると5.8グラムになった。酸化せずに残った銅は何グラムか。

と言う問題。一般的な解き方では、実験前と実験後の質量の変化(差)に注目して、その差が意味するところから銅と酸素が完全に反応するときの質量比(銅:酸素=4:1)に持ち込んで答えを出す。けれども、何人かの生徒は違った。

「先生、もし4.8グラムの銅が完全に反応したら6グラムになるはずですよね。その6グラムと実際の5.8グラムとの差の0.2グラムが、完全な反応のために追加で必要な酸素のはずだから、酸素0.2グラムに反応するべき銅の質量0.8グラムが、余ってしまった銅の質量なのでは?」

何人かの生徒の主張をまとめると、このようなもの。

この単元の計算問題を教えなければならない時期がやってくるたびに、この二つの解き方の根本的な違いに興味を持ってきたけれど、それはどうやらこんな違いであるらしい。

A.前者では、現に目の前で起こったことに対してのデータにのみ注目する。明らかな事実(fact)をベースにして、そのファクトと酸化の質量比というファクトを突き合わせて答えを導く。

B.後者は、「もし用意された銅が完全に反応したなら」という仮定から入る。仮定から入るので、計算式は徹頭徹尾「目の前で起こっていること」とは関係のないものとなるが、ありもしないもの、起こりもしなかったことを仮定して想像の中でデータを処理しても、不思議と答えは出る。想像の中で動かした実験結果が、現実に帰還するのだ。

中学理科という教科の特性を考えたとき、たぶん正しいと言われるのはAの方だろう。目の前にあるデータよりも自分の中の「こうであったら」を優先させることは、科学的な態度とは言いづらいからだ。

でも。そんな一般論は置いておいて、リアリズムを置き去りにしたロマンティックな考え方、解き方を中学理科という一見無味乾燥な世界に持ち込んで答えにたどり着いた生徒の存在が、ぼくには何だか頼もしく感じられて仕方がなかった。大袈裟は承知で、そうした発想の出発点の違いこそが、ホモ・サピエンスという生物種の強みでなくてなんだろう。いや、やっぱり大袈裟だな。

さらに頼もしいことには、ロマンティックな解き方をした生徒のうちの2人が、あえて次の類似問題では「リアリスト」的な解き方で答えを出そうとしてくれたのだ。もちろん、ぼくからは何の強制もしていない。使い慣れた発想から離れて物事を見る練習を、彼らは誰に言われるでもなくやったのだ。かなわんなあ。

たくさんの人間の中にある、ロマンティストとリアリストの二面性。それは、その気になりさえすれば中学生の日常学習の中からでも、照らし出すことができる。大人がオンラインだのライブだの対面だのとカテゴライズして非難の応酬をしているしている間に、彼らはすでにしてその呪縛から自由。それでいいいよなあ、それで。