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遠い

車内から出ると満点の星空だった。「わあわあ甲子見て見てオリオン座」と袖を引っ張る乙音を「天体観測じゃないんだから」と振り払い、トランクから荷物を取り出し始める。広場にいるのは私達二人だけで、周囲には草の匂いが立ちこめている。「今日は来るといいねえ」と乙音は言いながら、プルトップを倒し、缶をぐいとあおるが、即座に私はそれをひったくって中身を地面にぶちまける。乙音はぶうぶうと文句を垂れる。異星人と私達が倫理やマナーを共有しているとは考えられないが、それでもコンタクトでへまをしないためには人類としての礼節をしっかりさせておくべきだ。
荷物を所定の位置に並べ、メッセージが十分に増幅できることを確認したあと、私は乙音と手を繋ぎ、日常言語と比べ独特な発音を持つ言葉を唱えながら回り始める。私達の回転によって星空が視界の中で掻き回される。乙音は幸せそうに私を見つめる。
甲子の信じるものは私も信じる。そう彼女は言った。私は乙音のことが好きだが、そうであるからこそその部分が気に食わない。
恋愛は互いが見つめ合うことではなくて、互いが同じものを見ることだ。誰が何と言おうと私のこの信念は揺らがない。見つめ合う場合、互いの視線はすれ違ってしまう。乙音はそのことが分かっていない。どちらも宇宙に視線を向けているのは変わりないが、私が自分の視線をなんの迂回もなくまっすぐと宇宙へ伸ばしているのに比べ、乙音の視線は一旦私に向かった上で、宇宙へと向かう。彼女の視線にはその分、迂回があり、その迂回が、私達の関係を決定的に損なっている。そしてそのことに彼女は気づいていない。一刻も早く瑕疵を埋め、私達の関係は完全なものにならなければならないのだ。宇宙の隣人、私、乙音。三点を結ぶ図形は未だ歪んだ線分にとどまっていて、それが二等辺三角形になる時、私達は初めて「私達」となり、完全な関係を結べるようになるのだ。
甲子はロマンティストだね。
あのタピオカ屋で舐めた辛酸を忘れることはない。乙音はその一言で私の主張を綺麗に受け流し、どのフレーバーがいいか、カウンターの上にあって見えにくいメニューに背を伸ばすのに戻っていった。そのタピオカ屋は今は唐揚げ専門店になっている。
宇宙の隣人の実在と私達の関係は決してロマンなどというものではない。今ここでそれらを同時に証明する。いや、証明されなければならない。
一時間。
二時間。
三時間。
私達は回り続け、互いを見つめ続ける。しかし、視線が帯びた意味は互いに違う。星空は星空のままでなんの変化も起こらない。
四時間。
五時間。
六時間。
「いやー来ないねー」
体内時計とは便利なもので、景色は暗いままなのにもかかわらず、朝の気配が忍び寄ってくるのが分かる。朝は他者や愛の証明とはなんの関係もない日常生活を連れてやってくる。証明を試みたのはこれが初めてではない。三、四回おきに呼ぶ方法を変えてみたが、メッセージを送ってしばらくした時に訪れるこの感覚は変わることがない。
不意に未来に私が行おうとする全ての証明の失敗が約束されているような気がしてきて、叫びたくなるほどの恐怖が突き上げてきた。ここで乙音に抱きついても、乙音の私への理解は浅い水準にとどまったままなので、私の恐怖はその浅い水準の中で飼い殺しにされてしまうことだろう。そう思うと別の恐怖が込み上げてきて、それが邪魔をして私は乙音に助けを求めることができない。
その時だ。乙音の背後の星空で不規則に動く光点を認めたのは。
「あれ!」と私は指を指し、乙音は振り返るが、それとほぼ同時に光点は消える。
間違いない。あれは私達のメッセージを受け取った隣人だ。乙音は光点の存在を認められなかったみたいで、きょとんとしている。
残念さに溜息をつきそうになる矢先、無数の糸屑が私達の間に降り注ぐ。
「これは」
「天使の毛髪」と呼ばれる。それらは隣人の訪問があったことのなによりの証拠だ。私達の愛は本物になる、という歓喜と共に私は乙音を振り返る。
「蜘蛛の糸だね」
乙音は指に絡まるものを見ながら言った。
「バルーニングって知ってる?子蜘蛛が糸を空気に垂らして浮かんでいくの。偶に群れを作って飛ぶことがあるからこうやって切り離された糸が落ちてくるってこともあるみたいで」
何が起こっているのか分からなかった。
私が乙音を説得するために用意した理屈は、乙音の口から流れる博識によって尽く塗り固められていき、私はそれを石のように黙って見守っていた。構えた拳銃が引き金の引かれないうちに相手によって分解されていくような、そんな気分が広がっていく。
講義を一通り終えて、乙音はどこから取り出したのか、缶のプルトップに指をかける。
「来ないねえ」という声と共にプルトップが倒され、缶が私にも勧められる。私の愛の証明の場は単なる恋人同士の酒盛りの場になっていった。
それから私達は他愛のない会話を交わしながら、夜を過ごした。天使の毛髪の話を蒸し返そうにも、乙音の温和な口調と共に強い説得力を持って行われた説明が、固い軛となって私の動きを封じ、蒸し返そうという気概すらも徐々に奪い取っていった。
地平線からせり上がってくる陽光は、満天の星空を浸食していき、無害で単調な真昼の光景に染め変えていった。
蜘蛛の糸はずっと前に降りやんでいた。そう、蜘蛛の糸は。
「遠い」
青空に半ば霞むようにして残った月を見ながら、私は独り言ちた。
乙音は笑顔で私の方を見、私の手を握る。私がどういうことを言ったとしてもそうしただろう。
私は目に滲み始めた涙を気づかれないように拭き取りながら、乙音の手を握り返す。



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