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光の中

樹冠から降り注ぐ陽光を背に、倒木をゆくハキリアリの隊列を眺めていた甲は、慣れた匂いが鼻腔を通り過ぎていくのに気づいた。
折り畳んでいた脚を広げて、幹を降り、まだ葉の上に残っている昨日の雨粒を弾き飛ばしながら、林の中へ分け入っていく。匂いを辿っていくうちに地面の傾斜は急になっていき、下に大きな岩でもあるのだろうか、そこだけが丘のように盛り上がった地形にさしかかった時、甲は丘の突端に乙の姿をみとめた。
みとめたといっても乙の体を全部、というわけではない。丘の突端には、折れ曲がったシダの葉とその背後の景色しか見えないが、シダの葉から甲の体長より少し高めの位置に唐突に耳が浮かんでいる。
甲は群れる葉の中に身を滑らせ、浮遊する耳の方に近づいていった。甲の体は葉叢を受け入れるように緑色に染まっていき、葉叢の方も甲を受け入れるように甲の肢体を自身に溶け込ませるのに任せていった。
さっきまで流れていた静けさに似つかわしくない音の存在を乙は訝しんだ。途端、背に何者かが覆いかぶさり、驚きのあまり乙は鳴き声を上げた。必死で相手の体を掴んで組み敷き、喉に当たる部分に牙を突き立てた。
嗅ぎ慣れた匂いが乙が牙を食い込ませることを寸前で止めた。
──驚かさないでよ。
乙は不機嫌な様子で甲の拘束を解く。乙の体の輪郭がじわじわと浮き出てくる。
──今度は逆になってる。
と甲はなお乙をからかうのをやめない。なんのことかと乙は体を見回すが、甲が耳を鼻先で突いたことで、耳が透けていることに気づく。
──見えてたってこと?
同意する甲を見て、乙は若干恥ずかしい気分になるが、その気分を抑えて甲に非難の声を浴びせる。
──せっかくいいところだったのに、逃げちゃったじゃない。
──逃げたって?
乙は丘の先に目を遣る。
乙が指し示す方向を見た甲は、丘を降りた場所の林が不自然に揺れているのを見た。
──何が。
乙は無言で皮膜を広げ、表面に獲物を象るイコンを描写する。わざわざイコンで表現する必要はなかったが、できるだけ練習する機会を増やしておきたいのだろう。
──それって、数月前に<樹>から消されたやつじゃん。生きてたんだ。
──追う?一緒に。生け捕りだよ。
──もちろん。
二者は丘を飛び降り、獲物の匂いを辿って駆け始める。二者の体表は、森の投げかける様々な色を受け取り、色素泡の複雑な操作によって二者の姿を周囲に溶け込ませる。空を争う大木たちによって投げられる影、影を苗床にして湧き上がった苔やシダ、絡みつく蔦や繁茂する木の葉、それら全てによって砕かれた陽光が、二者の体を通り過ぎていく。
──大分上手くなったね。
──何が?
──イコンの描き方。
──……練習したからね。練習する決心がついた、ともいうな。
──すごいなあ。そうやってこれからどんどん生き物たちの姿を象って、大婆様みたいな<樹>を描けるようになるんだ。
その時、乙が遠い方を見るような面持ちになるのを甲は感じた。
匂いが途切れ、代わりにひんやりとした空気が肌に触れたかと思うと、白い水しぶきが二人の前に現れた。匂いは岸辺に続いたあとで途切れていた。
──渡ったみたいだね。濡れるのも嫌だし……。匂いは半日は消えないから回り道する?
乙は同意し、二者は川に沿って歩き始めた。
──正直にいうとあんまり大婆様みたいにはなりたくない。
しばらく川の流れる音を聞いたあと、乙はぽつりと甲に伝えた。
──え、なんで?大事な仕事だよ?
と、驚いた顔で甲は応じる。
──確かにどういう生き物がどれくらいいるか<樹>に記録していくのは大事だ。でも、<樹>を描くために皮膜をあんなに大きくしちゃったら、今みたいに森を歩くことができなくなってしまう。
甲は怪訝な表情で乙に応じる。
──森を歩けなくなることがそんなに嫌なことかなあ。こうやって歩くよりも調査役が伝えてくれる情報の方がずっと多くて、正確なものだよ?毎日調査役が伝えてくれる情報を元に、私達と私達を取り巻く環境の歴史を織り上げていく。とても名誉で、贅沢な仕事だよ。私だったら、森を歩けなくなることなんか気にならないけどなあ。
甲は、その時、乙の表情がこれまで見た中でも最も大きな悲しみを浮かべたように見えたが、すぐ次の瞬間に元の表情が現れたので、質問するのもおかしいような気がして、そのまま黙ってしまった。訪れた沈黙を引きずったまま、二者は迂回路を行き、河を渡った。

──こんなにいるなんて。どうやって匂いを隠してこれたんだろう。
茂みで隠れていて部分的にしか見えないが、甲と乙は目の前に広がるコロニーの大きさにただただ驚くばかりだった。
──生け捕りなんて考えてる場合じゃないね。すぐに村に伝えないと。
──信じてくれるかな。
調査役たちは多忙だ。幼体である二者の言い分を聞いて動いてくれるかといえば、疑わしい。
──絵にすればまだ信じてくれるかもしれない。
そう言ったあと、甲は体色を元に戻して皮膜を目一杯広げ、乙の方に向き直った。
──さすがにイコンみたいに念じて描くのは無理だろうから、ここに。
──でも色を変えられなくなるかも。
──炎症が起こっても一生じゃないでしょ。
乙は数秒間ためらったが、意を決したように脚を踏みかえて、本来は自分の皮膜を引っ掻くための爪を伸ばす。
爪の先端から分泌される化学物質が、甲の皮膜に色を加えていく。
──そもそも彼らはなんでこんなに減ってしまったんだろうね。ていうか、最近<樹>から消える生き物が多くなってない?
皮膜を伝わってくる若干の痛みに声を歪めながら甲は聞く。
──ここにはいない生き物が来たからだって、長老たちは言ってる。
──ここにはいない生き物って?火山の方から来たってこと?
──違う。
──じゃあどこ。
──ここの外。
──外って。
──この島の外。島っていうのは、私達の住んでいる森とか山とかをまとめたもので、その他の生き物は、島を取り巻く海から……
目の前の皮膜が激しい光を放った。
乙は視界にこびりついた残像を振り払いながら、甲の姿を探す。甲は乙と同じように、首を振り、光を受けた皮膜をくしゃくしゃに折り畳んでもがいていた。乙は光が放たれた方向に急いで首を向ける。
そこにいたのは奇妙な生き物だった。
樹皮のようなもので覆われた肌に毛は生えておらず、四肢は若木のようにひょろ長い。乙は奇妙な生き物を多く見てきたが、目の前にいる生き物の奇妙さはそれらとは別の奇妙さを持っているようだった。ここと名指すことは難しいが、強いていうのなら、奇妙さは生き物の貧弱さにあるような気がした。森の中で生きるにはあまりに造作に工夫がないが、にもかかわらず、これまで生きるのに不自由してこなかったという気配がその佇まいから伝わってくる。見た目の貧弱さにもかかわらず漂ってくる「説得力」、両者の落差が乙の認識をひどく混乱させ、「説得力」がどこから来るのかという疑念が、乙を不安にした。
しかし、生き物の姿態よりも乙の興味を一層ひきつけたのは、生き物が両手に持った道具だった。木の実ほどある眼球の瞳の部分だけを取り出して、黒い皮で包み込んだ円筒。その円筒がこれも黒色の箱にくっついていて、生き物はこの箱を支えるようにして道具を持っている。瞳は今も筒の奥で甲と乙を見つめている。
乙の視線に気づいたのか、生き物は箱に目を落とし、慌てた様子で林の中に身を隠した。もがいている甲を構ったため、生き物を追うことは叶わなかった。

乙が甲の皮膜に描いた絵と二者の報告は、成体たちの間で興味を得、調査役たちは報告にある場所へ派遣されていった。甲と乙は喜んだが、帰ってきた調査役たちの報告は喜ばしいものではなかった。
調査役たちが見たのは朽ちたコロニーと火がつけられた跡、蹄のような形をした無数の足跡だった。足跡はまだ新しいものだったため、足跡の主がコロニーを襲ったことが予想され、甲と乙の報告が疑われることはなかった。
乙は割り当てられた木のうろの中で物思いに耽る。
──私と甲を照らし出したあの閃光。あれは、そしてあれを発した道具は何だったのだろうか。長老たちのいう通り、獲物たちの住処を襲ったのは島の外の生き物だろう。でも、あの光が住処を焼いたものとは考えにくい。
うろは終の住処として割り当てられたものだった。早くも動きを制限し始めた皮膜の中で身じろぎしながら、乙はうろの外に広がる空を眺める。
──もしかすると光は、それが当たったものを道具の中に留め置く働きを持つものなのかもしれない。あの閃光は私達が皮膜の上に対象を象る時、対象に投げかけるまなざしのようなもので、まなざしに捉えられた私達は、生き物の手によって私達の皮膜に当たるものの上に象られていくのかも。
村の長たちは自分たちの村もコロニーのような事態になるかもしれず、急いで対策を講じなければならないと話し合っていた。
──私の想像が正しければ、村が焼けたり、島の全てが死に絶えたとしても、あの光の中にあった私と甲は、どこかの皮膜の表面に描かれた森の中になお立っているのかもしれない。そして、私達が描かれる回数は一回ではなく、この先何度も私達は皮膜の中で立ち続けているのかもしれない。
話し合いの内容を報告役づてに聞いた乙は、さらに発展した想像と、その想像によって胸の内に広がっていく安堵とも悲しみともつかない感情と共にまどろんでいった。


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