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木の葉

甲子の頭の上に木の葉が乗っていることに気づいたのは中学二年の夏休みの時だ。木の葉はどの種の樹木のものかは分からないが、広葉樹林のそれであることは確かで、真ん中に丸い切れ目が開いていた。私がそれを認める前、甲子は夏休みが始まってから一週間ほど祖父母の家に出掛けていたので、乗ったのはその一週間の間だと思う。位置は、頭頂部の後ろ寄りなので、正面から見ると気づきにくい。祖父母の家は山の方にあり、山菜とキノコのよく採れる自然豊かな土地として知られている。都会にはいないような獣の姿も頻繁に見かけるという。
最初は落ち葉だと思って、払おうとして手を伸ばしたが、その都度甲子は意図してやっているものとは気づかないほどのさりげなさで身を退き、接近する私の手を躱していった。先ほど言ったように木の葉は正面から見ると気づきにくく、遠目で見ればアクセサリーに見えないこともない。そんな些細なことにしつこく手を伸ばし続けるのもなんだか野暮な気がして、結局木の葉はそのままになった。当時、私は転校してきたばかりで、友達作りにあまり慣れていなかったことも理由になるかもしれない。転校初日、真っ先に笑顔と共に声をかけてきてくれた甲子は、既に孤独感に苛まれつつあった私にとって、真冬の陽光のように暖かく、心強い存在だった。せっかく築くことのできた二人の関係を些細なことで反故にしたくないという心理が当時の私には働いていたのだろう。
日常の中に埋もれてしまったとはいえ、木の葉の存在への疑念は私の心の深層にとどまり、ことあるごとに浮き上がってくることになった。例えば、部活動。私と甲子は同じ陸上部に所属しており、種目も同じ長距離だった。速さは甲子の方が上だったので、ランニングをしている時は自然に私が甲子の頭を見る形になった。木の葉は甲子の走行が体に起こす揺れや、吹きすさぶ風を巧みに受けつつも、なお同じ場所にとどまっていた。そんな練習のあと、ファミレスかどこかに寄って部活の疲れを癒したりしていると、木の葉の挙動の奇妙さが一層奇妙なものとして感じられるようになってきて、つい「本当の甲子は今頃どこにいるんだろう」といった言葉が口から洩れたりする。それに対し、「甲子は私のことだポンよ?」と私の前にいる甲子は妙な語尾で答えるが、はっとした様子で「甲子は私のことだよ?」と訂正する。それでも妙な応答であることに変わりはないが、しかし、日常が日常のままであろうとする性質は実に強力なもので、咄嗟に開かれた裂け目も、店員が持ってくる和風パスタやチーズハンバーグを前にして敢え無く塞がっていくのだった。それからも私達は大会や文化祭や受験勉強を共に乗り越え、二人の絆をより厚いものへと育んでいった。
しかし、関係が厚くなればなるほど、その正当性を確認したくなるというのが人情である。私のその正当性への欲求は月日が経つごとに深くなっていき、高校二年の修学旅行の際、頂点に達し、ついに行動に駆り立てることとなった。
一日目の夜のことだ。同室で宿泊することとなった私達は入浴を終え、明日に備えて早めの睡眠をとることにした。暗闇に目が慣れてきたことを確かめると、私はそっと自分のベッドを抜け出して、寝息を立てる甲子の方に忍び足で近づいていった。運の悪いことに近づいた時の甲子は仰向けになって寝ていたので、肝心の木の葉は枕に埋もれてしまい、容易に触ることができない状態だった。そこで私は甲子が寝返りを打って態勢が変わるのを待つことにし、静かな寝息が部屋を満たす中、甲子の寝台の横でその機会をうかがうことになった。第三者から見れば、異様な光景だっただろうが、その時の私は私と甲子の築いてきた関係が本当のものであったことを確かめたい一心で、枕の傍に立つ幽霊のようなものに見えようと、構うことはなかった。
午前二時を回った辺りだろうか。殊更大きな、そしてどうでもよい寝言を言ったかと思うと、甲子の上半身が布団の中で傾き、大胆な反転を行った。そして、再び枕に打ち付けられた頭の上の木の葉を私は確かに認めたのである。そうするや否や私の手はそこに吸い寄せられるようにして、木の葉の端をつかみ、一気に頭から引き剥がした。木の葉はあっけないほどの軽さで頭から離れ、私の手の中に収まった。数年間の月日を経てようやく成し遂げた偉業がもたらす興奮に流されそうになりながらも、私は甲子の方に視線を移し、変化の有無を見届けようとした。しかし、甲子には変化した様子はなく、室内にはさっきと変わらない静かな寝息だけが規則正しく立てられているだけだった。私がまず感じたのは安堵よりもあっけなさであり、その次には、些細なことに神経質になっていた自分への羞恥だった。こんなもののために私はあくせく感情を働かせていたのかと思うと、全身の力が抜けてきた。羞恥は羞恥でも心地良い羞恥だった。こんな力の抜け具合だと普段は不眠がちな私でもいい睡眠を行えそうだと、そう思いながら私は自分のベッドに向かった。
室内を満たす臭気に気づいたのはその時だ。およそホテルの一室とは不釣り合いな、土壌と野草から湧き立ち、そしてそれを食った者の皮膚からも滲み出る野山の臭いが、部屋一杯に立ち込めていた。私はすぐさま甲子を振り返った。が、甲子の姿かたちは変わっていない。どういうことだろうか、と腕を組もうとした途端、私の頭に閃光が走り、その洞察に突き動かされるようにして、私は甲子の掛布団の下半分を引き剥がした。甲子の寝間着の中で何かが蠢いていた。その蠢きは人間の脚のために仕立てられた衣服に対する明白な抗議を表していた。その抗議にとうとう降参したのか、寝間着は激しい音を立てて破れはじめ、くの字に曲がった後ろ足と、ほこり取りのような尾、そして密に生え揃った焦げ茶色の体毛が私の前に現れた。その獣はちょうど芋虫が蛹を作るように身もだえを行い、それに合わせて甲子の甲子である部分が徐々に毛に覆われ、浸食を受けていくのだった。
その時の私は疑念が確信に変わったことを受け、ただちに行動に移ってもよかったのかもしれない。が、私は動けなかった。私は躊躇していた。私を長年欺き続けてきたこの獣を退治することは道理だろう。だが、その過程でこの獣がこの獣になることを受け入れることは、木の葉の乗った甲子と私が築いてきた思い出や、これから築いていくであろう思い出をも抹殺することを意味するのではないか。この場面に遭遇するまでそのことに思い当たらなかったわけではないが、そのような哲学的な戸惑いは、疑念が確信に変わった現実を前にすれば、たちまち砕け散ってしまうだろうと、そう思っていた。しかし、事態は逆で、日常の中では風に吹き流される木の葉のようにどうでもよいものである戸惑いは、日常が崩れ去ってみれば予想以上の重みを持って私の頭にのしかかってくるのだった。その重みはそのまま私の手に握られていた木の葉の重みとなった。木の葉を握る私の手は、その重みに釣られるようにして、甲子の頭の方に落ち込んでいき、元あった場所に木の葉を置いた。獣は波が引くように甲子から離れていき、あとには規則的な寝息だけが残った。
こうして一緒に生活を送るようになった今でも木の葉は風や体の揺れ、日常生活の端々で起こる重大だが取るに足りない事件に動じることなく、甲子の頭の上に乗り続けている。



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