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「なにもしないを、する」を研究する

こんにちは。ニクセン研究員のあきらです。

ニクセン。それは「なにもしないを、する」ということ。もともとはオランダ発の概念らしいのですが、そのとっても禅問答的な行いがもたらす効用、効果を日々、実践と共に研究しております。研究員であるワタクシも、まだその全体像をつかめているわけではありません。むしろ、そのとらえどころのない実態におののきつつも、研究員として真正面から向き合っていこうと考える所存です。

そもそも、研究するという以上、ニクセンとは何なのか、「なにもしないを、する」ということはどういうことなのか。研究対象の定義を明確にしないとはじまらないはずです。

が、その問い自体、議論が多岐にわたるため、この場ではニクセンのざっくりとしたイメージをつかんでもらうことをゴールにこの文章を書き進めていきたいと思います。

ざっくりとニクセンを定義すると…
日常で当たり前だと思い、惰性で続けていることを放棄する、手放すさま」と言えます。

究極は「なにももしない」ということですが、そこまでいかずとも、「仕事をしない」「タバコを吸わない」「会社に行かない」「学校に行かない」「パソコンを開かない…」…。様々な細分化されたニクセンが存在します。(このあたり、ニクセンの定義と分類については様々が議論が展開されますので、今後、深めていこうと考えております)

ニクセン行者の心の変遷を表す「ニクセン曲線」

では、ニクセンをすると何が起こるのか。

そのとっかかりとなるのが我ら、niksen合同会社のだいひょう、建さんが考案した「ニクセン曲線」にあると考えます。これはニクセン行者、通称ニクセニスト(ニクセンを実践する人)の多くが経験する心のありようの変遷をあらわしているものです。

まだ粗削りな概念図なのですがこちらの図をご覧ください。

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縦軸か心の動き(上がポジティブ、下がネガティブ)、横軸が時間経過です。

ニクセンをはじめると最初はちょっとポジティブな愉快な気持ちになります。しかし、一定時間たつと急速に苦しく、ときに心が乱れる状態に入っていく。そして、その苦しみ、心の乱れがしばらく続きます(その持続時間はそれぞれの状況によります)。一定時間、ネガティブな心の動き、混乱に身を任せるようになってくると、何かの偶然なきっかけ、あるいは自分の心の奥から沸き起こるなにかによって、状況が一変する機会がやってきます(おそらく)。

これが、我々が仮に置くニクセンの「効用」です。が、ともするといかがわしい荒唐無稽な発想に聞こえるかもしれません。そのため、なるべくたくさんの「ニクセン」事例を集めていき、分析を重ねていこうと考えております。

“会社員ニクセン”による「ニクセン曲線」の実例

卑近な例ではありますが、ワタクシが経験したニクセンの具体的な事例をニクセン曲線に絡めてご紹介します。

ワタクシは2002年に新卒で大手企業に入りまして、そこで10年間、ガムシャラに働いてきましたが2012年、10年間務めた会社を辞めました。会社員をニクセンしました。

2011年の東日本大震災をきっかけに、自分のプロジェクト「子ども原っぱ大学」を立ち上げ、そのプロジェクトでご飯が食べられると信じて、2012年に10年間務めたその会社を辞めたのです。

その後の顛末をニクセン曲線になぞらえてお伝えします。

はじめはもう、ワクワクでした。そのころ、ノマドワーカー、という言葉が流行っていたこともあり、毎日会社に通う必要がなく、短パンでカフェでノートPCを開いて「仕事」をできる自分に酔っていました。ああ、会社を辞めるって最高だな!と(ニクセン第1フェーズ 高揚期)。

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しかし、その期間はそんなに長くは続きません。僕の個人プロジェクトはなかなか進まない。自分自身の不安定な状況が次第に不安になってきます。僕は何を目指していたんだっけ、このままどこに向かうんだっけ、本当にやりたいことは何だっけ…。周りのみんな(かつての友人や同期たち)はすごいスピードで成果をあげたり、成長したりしているのに、自分だけ世界から取り残されたような孤立感に苛まれました(ニクセン第2フェーズ 沈降期)。

この期間は僕の場合は長かったです(1年半ぐらい続いたと記憶しています)。日々、悶々としていました。思いっきりジタバタしては周囲に迷惑をかけていました。長い長いトンネルのなかにいるような時期でした(ニクセン第3フェーズ 混乱期)。これだ!と思ってはやっぱり違ったとなったり、とにかく、右往左往していた記憶があります。この時期の苦しさは22歳で働き始めてから、もっとも大きなものだったと記憶しています。

この混乱期はとても大切な、いわば変革の前の「さなぎ」のような時期なのかもしれません。

2014年の後半、僕は今の原っぱ大学の事業パートナーと出会いました。その出会いによって個人の小さなプロジェクトにすぎなかった「子ども原っぱ大学」を現在の形の原型となる「原っぱ大学」に昇華させることができました(ニクセン第4フェーズ 発芽期)。

今振り返ってみると、そこは「自分でつかみ取った」とか「意志の力で勝ち取った」とか「計画通りに実現した」といった私が主体的に、積極的に、計画的に、形にしたという手ごたえがあまりありません。

いくつかの出会い、きっかけ、ちょっとした示唆が重なり、形になっていった、というのが正直なところです。このあたりの「受動的」そして「偶発的」な感覚がニクセンによる「効用」のカギとなるのではないか、とワタクシは考えております。

当時のワタクシの試行錯誤の記録はちょっと前のこのgreenz.jpの記事に詳しく書いてあります(こちら混乱期の真っ只中の記事です)↓

”やりたいことをやるのではなく、違うなと思ったことをやめていく。greenz.jpプロデューサー塚越暁さんが「子ども原っぱ大学」を立ち上げたあと”

ニクセンとどう向き合うか。3つの心得


ニクセンの分かりやすい形が「仕事ニクセン」です。人生の多くを占めるのは仕事ですから。でも、ニクセンはいろいろな形で存在し得ます。例えば「タバコニクセン」とか「お酒ニクセン」といった部分的なニクセンからniksen合同会社だいひょうの建さん、パートナーのゆりさんのように仕事を辞め、車を売り払い、家を引き払って家族ごとアフリカに1年間移住するという「全人生ニクセン」(非常にレベルが高いです)も存在します。

ニクセンの形態、期間はこのようにさまざまですが、ニクセニストの多くがこの「ニクセン曲線」的な心の変遷を体感しているのです。

では、あなたが今日からニクセニストになるとして、どのような心の在り方でニクセンに臨めばいいのか。これまでの研究からみえてきた心得を3つ、お伝えします。

①内発的/外発的。きっかけは何でもあり

ニクセニストになる際、きっかけは何でもいいのです。とかくこの世は、自分自身が選択的に、能動的に、主体的に、合目的的に動かねばならない、という縛りが強いのです。ニクセンについても、力強いご自身の意思の力と選択によって、まるで修行僧のように、「よし、僕は今日からニクセンをする」と決めねばならぬ、と思いがちです。

でも、そんな風に気構えるものではありません。もちろん、そうやって決めてやりきる、内発的動機に支えられてニクセニストになる、ということももちろんアリです。

一方で、受動的なきっかけで、ふとした成り行きで、ニクセンが始まってしまうこともあるでしょう。

ある日突然、会社をクビになった。ある日突然、会社がつぶれた。ある日突然、学校に行くのが嫌になった、ある日突然、…。そんな突発的かつ偶発的なきっかけも、ニクセンのスタートになりえるわけです。

どっちも、立派なニクセンです。動機、ニクセンになるきっかけは問題ではありません。自分の意思の有無は問題ではありません。

その意味では、今の世界的なコロナウイルスの拡散状況はニクセンに踏み出す(踏み出さざるを得ない)人はたくさんいるでしょう。そんな場合には積極的に、自分がニクセンしていることを受け入れ、肯定して、全力でニクセンを味わうことをお勧めします。

②不安、混乱、迷い、孤独…。負の感情に身を任せる

ニクセンにどっぷり浸ると、こうした負の感情がたくさん沸き起こってくるでしょう。ときに他者と自分を比べて「どん底」を感じることがあるかもしれません。「あいつは一生懸命働いているのに…」「あいつはたくさんお金を稼いでいるのに…」「あいつは、あいつは、あいつは…」。

そんな自分の「弱さ」に押しつぶされそうになるかもしれません。

でも、大丈夫です。そこはニクセニストの誰もが通る道です。これまでわたくしどもが集めた事例では、多かれ少なかれ誰しもが実際、こうした心のざわつきにぶつかっています。そういう負の感情や混乱、混沌はニクセンのプロセスの中で、避けて通ることができないものなようです。

逆に、負の感情があふれ出ていないうちは、まだまだニクセン途中なのかもしれません。

そう。とにかく心が乱されるときはそこに任せる。味わう。混乱し、それでもなんとかしようとあがく日々を過ごす。

ただし、心の深いところで、「これはニクセンにつきものな、誰もが訪れる心象風景なのだ。いずれ、終わる。止まない雨はないんだ…。」こう自らに言い聞かせるのです。

この「言い聞かせ」によりニクセンにつきものの心の乱れを味わいつつ、心が極限まで乱れることを防ぐことができるでしょう。

③ロジックよりも立ち上がってくる偶と縁にゆだねる

そうやって、混沌の中に身をさらしていると、ふと、偶然に心が揺れる出会いや、これだ、と思う何かに出会うことがあります。

そのご縁をつかみ、その偶然にゆだねてみる。

それでもその多くがまやかしだったりまぼろしだったりします。

でもときに、何の脈絡もなく立ち上がってきた小さな偶然がその後の世界の見え方を大きく変えてしまうことがあります。ここで大切なのはその「何か」を主体的に捕まえに行く、という感覚ではないということ。

偶然に、ふとしたときに沸き起こり、ふっと目の前に立ち現れる。そこに身をゆだねることで、次の視界が開けていくという。そしてそれは事前にはわからないという…。

これがニクセンをとらえどころが難しい部分であり、面白い部分であり、なんかちょっと怪しげな部分であり、研究し甲斐がある点だなぁと感じるところであります。まだ研究途上です。

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「偶然」と「なりゆき」の結果を信じる、楽しむ

つまるところ、この点に尽きると思います。そしてこれはワタクシが「原っぱ大学」での遊びでとても大切にしていることです。計画のその先、たまたまたどり着いた結果を受け入れ、味わい、楽しむ。それが一見して失敗に見えても、その状況そのものを楽しむ。それが遊びの神髄だと思っています。

また、ワタクシが理事を勤めている「一般社団法人みつかる+わかる」では、学びのプロセスもそのように偶然たどりついた「何か」にゆだねる学びの大切さを研究しています。「みつける」ではなくて「みつかる」。

ニクセンも然り。自分自身でコントロールできる環境の外側、そこから立ち起こってくる「何か」。その「何か」を信じて面白がる。楽しむ。これがニクセンの神髄ではないかと現時点では考えております。


2020年4月の社会環境は絶好のニクセン日和

通勤も、学校も、あれもこれも、色んなことが止まり、心乱されることが多い今日のこの状況はもしかしてチャンスかもしれません。もちろん、不安もあるし、混乱もするし、イライラもする。でも、この混とんとした状況から芽生え、生まれることのなかに、想定していなかったワタクシたちの可能性や、次の在り方を規定する新しい発見が潜んでいるかもしれません。

だからだから、この環境を想定以上に悲観するでなく、かつ強引に未来予想を立てる出なく、日々の流れに身を任せてみるのもいいかも・・・、しれません。

ですので、ワタクシは今こそ、率先してニクセンしてみることで、何が起きるか実験してみようと心に決めるのでああります(←ぼーっとしていることの言い訳)。

同志、求ム!

一緒に研究しましょう。


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