8月9日18時58分ごろに、山梨県から御巣鷹の尾根方向をみた明るさ
1985年(昭和60年)8月12日18時56分ごろに、日本航空123便(東京羽田→大阪伊丹)が、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した航空機事故。乗客・乗員524人のうち、520人が犠牲になるという、史上最悪の航空機事故となりました。
事故現場は、群馬県の最南端付近で、長野県・群馬県・埼玉県の3県が隣接するあたりです。山梨県も、すぐ近くになります。
行政区分の境目が現場となったうえ、事故現場が特定できない、また、救助活動の主体は、国の、どの機関が担うのかをめぐって混乱が起き、救助活動は翌日の夜明けまで「持ち越し」となりました。
次の写メは、2022年8月9日18時58分頃に、山梨県側から、御巣鷹の尾根などの方向を向いたものです。(現場は、地図のとおり、さらに山中となります。)
このように、墜落時刻は、薄暮状態であって、空は、まだ、明るかったことがわかります。日本航空123便は、18時24分ごろから、墜落までの約30分間あまり、コントロール不能状態で飛行を続けています。そのような時間を経て、山中で墜落・大規模な炎上という事態となったわけですが、墜落現場を特定できないという失態が生じます。
■墜落現場がわからない
1985年8月12日の夜、テレビニュースは、日航123便の報道一色となりますが、誰も、墜落現場を特定できない、という事態となります。
そして、救助活動は、翌日となり、墜落現場での負傷者は、そのまま、一晩「放置」されることになりました。
当時は、まだ、航空機事故に対する警戒感は、一般の人々にもあり、「新幹線にしか乗らない」という考えの人も、珍しくありませんでした。
その後に明らかになった、日航123便と航空管制のやりとりをみましても、まさか、「東京羽田-大阪伊丹便」が墜落するという事態は、航空管制にも、すぐには認識がなかったようです。
このように、いくつかの要因が重なって、救助活動が翌朝からとなったわけですが、当然ながら、迅速な現場特定・救助活動が行われたならば、助かった方も、もう少しいたかもしれません。
(2022年8月10日)
日本航空123便は、富士川に沿うかのように、南アルプスと富士山の間を、当初は北上。
山梨県の鰍沢口(かじかざわぐち)は、富士川が甲府盆地から駿河湾に向けて流れる途中の山間部(の入口)です。富士川は、南アルプスと富士山の間に位置して流れています。
(富士川の流れ。上側は、北方向で、甲府盆地。手前は、南方向で、山間部から駿河湾へ続く。)
(逆向きから撮影。甲府盆地から、急峻な山間部を経て、駿河湾へ注ぐ。橋は、富士橋。)
2022年8月10日17時30分ごろ、富士橋を渡ると、海側からの強い風が、北の甲府盆地へ抜けていました。日本航空123便も、夕方の時刻ですが、海側からの風は、吹いていたのでしょうか?
■2006年から残存機体を展示
日本航空では、羽田空港付近にある、日本航空安全啓発センターで、123便の残存機体を展示しています。見学は無料ですが、事前に申し込みが必要となっています。
詳しくは、「JALグループ安全啓発センター見学予約サイト」または「日本航空安全啓発センター」+「予約」で、グーグル検索のうえ、ご確認下さい。
【日本航空安全啓発センターの見学】
場所: 東京都大田区羽田空港3丁目5-1
次の語句のグーグル検索で、予約サイトが表示されます。
「JALグループ安全啓発センター見学予約サイト」
「日本航空安全啓発センター」+「予約」
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