dear diary 20240625

時々、暗闇の底無しを永遠に落ち続ける夢を見る。

いろいろな種類の不快な夢に滞在しなければならないことがあるが、
底無しで落ち続けなければならない夢が、わたしは一番苦しいかもしれない。
終わりの見えない怖ろしさだから。

4月、5月、6月はそれが夢だけではなく現実だった。


4月、落ちたな思って、気がついたら戻れないでいることに気づく。
なんかおかしい。
でも今までもそんなこんなでやってきたじゃない?と、誤魔化してみる。


5月の初め、
よく晴れた暖かい日、
淡い水色の空に薄い雲が溶け合って、
少しだけひんやりとした風が顔を冷やしてくれる、
クリームソーダみたいな日。

そんなことを思いながら、職場の別棟に行くために屋外に出たら、
途中足が重くなりはじめ、周りの景色は鮮やかなのに、アンパンマンのくらやみマンに囲われたみたいに自分の周囲だけが灰色になった。

太陽にも空にも風にも、責められてる、としか感じられなくなった。

陽の光がつらい、って、こういうことなのか。。

歯を食いしばって席に戻り、広げてあった書類を雑に仕舞い、逃げるように早退した。
その日から仕事に行けていない。

6月、
仕事をしなくなり一ヶ月以上経ち、物理的負荷は確実に軽くなったはずだが、
底なし沼に落ち続ける感覚は止まず、むしろ加速度が増しているように思える。

スマホも触れず奥の部屋に投げたままにして寝込み、
初めて1週間もお風呂に行けず、
今までより更に音に過敏になって人の声でさえ頭が爆発しそうで。

どこまで、いつまで落下するのかわからないこの怖さを止めたい。

止める方法は二つに一つで、
闘うか、人生を止めるか。

わたしは、多方面から考え(たつもりで)、人生を止めるしかないという思いに囚われた。

無限にも思える落下する時間は苦痛でしかなく、自力で飛べる翼もなく、わたしの傍にはドラえもんなんていないのだから。

なによりも一番は、周囲に負担で迷惑でしかないのだから、存在してはいけないとしか思えなかった。
子どもたちの心身への影響を最善に考えたとき、今自分にできる最大限の配慮は、
プラスを与えられないならせめてマイナスにさせないこと、そのために消えることだろうと。

この世界には、居ないほうがましな親というのは残念ながら存在する。

わたしはそれなのか。それな気がしてならないという呪いみたいな思い。
その答え合わせなんてできるのかはわからないけれど、
できるとすれば何十年か後であり、わたしではなく子どもたちだ。

しかしいま、決断は子どもたちではなく自分がしなければならないんだよね。
一瞬、へんなの、って思ってしまう。
何も変じゃないのに。
それが親としての責任だから。

それくらい、わたしの頭の中はごった煮で、凝縮されて、
砂糖を入れてみても日本酒を振ってみても味が喧嘩するし負けるし、もう手の施しようのなくなった鍋。

わたしの思考力も判断力も、
朝にテレビから流れるお気楽な星座占いよりも信じられないものなんだ。
何故かそこだけは現状を冷静に理解している自分がいる。


ある眠れない日の明け方、
死ぬまでに母と同じテーブルに着いて、罵ったり小馬鹿にしあうことなく、ただ心の内を聞いてみたかったんだよなぁ、
今、母が応じてくれるかはわからないし、わたしの現状の精神状態ではとても難しいだろうなぁ、と残念に思った。

ぼんやり考えた。  

どうしてわたしたちはこうなってしまったのだろう。。

どうしてわたし、今こうなっているのだろう。

わたしってどんなふうに生きてきたんだっけ?
今のわたしが本来の自分でないことは確か。
本当のわたしってどんなだった?

 嘘が嫌い。
 間違ってることを見ないふりしたくない。
 でも過ちの背景は受け入れたい。
 性善説を信じる。
 理解はできなくても認めることはできる。
 愛をもって正しいことをしようとする人が
 報われる世界であってほしい。
 誰もが平穏でしあわせのうちにいてほしい。
 誰かの、あなたのしあわせがわたしのしあわせ。


なんだ、くらやみマンの中に落ちても、
わたしは今も何も変わっていないじゃない。
ならば変わったのは何なの?
何を間違えたの?
わからない。
やっぱりわからない。

あの日の電話を思い出す。
わたしはどんな嘘をついたのか?
わたしのなかの本当を話していた。

そして人の話は一度は受け止めて、問いただすのではなく、いつか本人の口から、自ら真実を話してくれると信じて待ち続けていた。
そうしてくれるはずだ、そういう人だと信じているから。

だからこそ、わたしは疑問と矛盾を眺めながら、
それでも悪意はないと思っていると、
なにかそうせざるを得ない理由や事情があるはずだと、
もし悪意や過ちがあったとしても、背景まるごと受け止めるなら責めることはしたくないと、
だってね、出会う人、時代、場所、何か一つでも違ったら、
わたしがそうだったかもしれないし、あなたもそうだったかもしれないんだよって、
だから信じることを前提として、ちゃんと話したいんだよって言ったんだよ。
きっとどこまでも御目出度い呑気なバカだって思われたよね。
失笑するような返答だったなぁ。

だって目に見えて矛盾があったし、
複数の明らかな嘘をつかれていたわけだから、この期に及んで何言ってるんだ?バカなのかって思われて当然なのだろう。


バカでもアホでもよかったんだよ、わたしは。
無事なら。
大丈夫なら。
平穏でいてくれるなら。
生きていてくれるなら。
それに勝ることなんてないから、
矛盾も嘘も、もし悪意だったとしても、
チャラでいいよ、バカでもアホでもいいよ。
背景も受止めるし性善説も揺るがないよ、
わたしの自分軸は、
誰かの、わたしのあなたのしあわせはわたしのしあわせ、なんだから。
しあわせな道をみつけたなら、それが一番いいんだよ。
もし本当にしあわせを見つけたなら、わたしはうれしいよ。
それ以上でも以下でもない。

あなたのしあわせがわたしのしあわせ。
誰もが報われしあわせでいて。

そうだよ、一言でいうならわたしの核はそういうことだ。

けれど残念なことに、わたしはキリストでもなければ、
普通よりも能力の低いちっぽけな人間でしかなかった。
だから自分ではすべての人どころか、目の前の人のしあわせを叶えることもできない。
たまらなく悔しいけれど。

そんな人間が持つにはあまりに果てしない願いなのだろう。
身の程知らず?
いいえ、そんなことはわかっている、
わかっているけど高すぎる理想を変えられない、捨てたくないんだ。

捨てなくてもいいかな、
だからこそきっと生きることは苦しいのだけど、
でも捨てたらそれってわたしじゃないと思うから、
捨てちゃいけないかな。

落ち続ける底なしの中でも、その気持ちが変わらないのなら。


信じる。
そして改めて強く強く願う、
誰もが平穏でしあわせのなかでいられるよう、
悲しむ人がいないよう、
正しくあろうとする心や努力や苦労が報われるよう。
心から笑っていますように。



―あの子の誕生日を控えた、決断の朝に

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