dear diary 20240424

最近の考えごとで、たくさん自分のピースを拾った気がする。

でも、おかしいんだよ。
いっこいっこはそんなおかしいことになってない気がするのに、
全部合わせようとするとわたしのなかに収まらない。
入ってたはずなんだから入るだろ?って思うじゃん?
絶対に蓋が閉まらない。
なんで?って困って、その自己矛盾みたいな何かがとても疲れになってる。

自分の中にあるときは圧縮してたものが、膨らんでもう戻らないようになってしまったのか。
一度散らかしたらゴミがついたのか、踏んでひび割れて拡がって嵩張るようになったのか。


いいや。
客観視、みたいなのはお腹いっぱいだなぁ。
取り出したものを全部元に仕舞い直したいのか、戻したくない、ばら撒いておきたいのかすらもうわからんから。
って感じで、どうでもいいや。



いらいらする、うるさい、つかれた以外の感情のセンサーがついに無くなったかもしれない。
不快の対は不快ではない。それだけ。
うれしいたのしいがない。
悲しいも自覚するものとしてはほとんどない。

最低だなーもう人として終わったなーと思うのが、
子どもに対しても一番に湧いてくるのが、だから何?になったし、
毎日子どもが手紙書いてくれるのもしんどい。
かあちゃん〇〇ありがとう、だいすき、はやく元気になってね、お誕生日おめでとう、
ぜーんぶだから何?。

口では最低限の礼儀としてありがとうって受け取るけど、顔はにこりともしていない。
子どもに対してもこれって、もうあたし戻れないよね。
いないほうがマシな部類の親ってやつ。

戻れないというか、これが本当の自分だっただけかな。
少しは感情や慈悲みたいなものがあるような振りをして、または正しいと思われるものを選択して、結果擬態してただけで。
そもそもあたし、母の笑った顔を思い出せないし、幼少期すら母を好きだった記憶もない。
はじめから自然の情愛などない者。 

自分は持っていないものだから、それを子どもから贈られると頭が理解できない、拒否反応になる。
そんなかんじ?きっと。

あらためて文字にすると酷いもんだね。
死期近いなと思ったらさすがにこの記事は削除しようね、、、子どもがみつけたらかわいそうだから。
一般論として、こんな親って分かってても諦めてても、子どもって傷つくらしいので。


4/25は三浦綾子の誕生日だけど、今この感じの自分で塩狩峠読み直したらどんなかんじなんだろうって興味がある。
あいにく具合悪くて本読める状態じゃないからすぐには読めないな、残念。
からだがすこし良い時期になったら読んでみようか。

さぁあたしの眼が感じることが可能なあかりはまだ何かあるのかな、
あるとして、自分がそれを望んでるのかは別だけど。
興味があるってだけで、全然楽しみなんかではない。
たぶん、どれだけ自分が無慈悲なのか確認する作業だろう。
みんなごめんね。






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