dear diary 20240402

一瞬浮いたりまた沈んだりしながら、
やっぱりわたしの命というのは、18歳からずっとアディショナルタイムなんだなぁと、少し離れた場所から誰かの事を見ているみたいな目線で居る。
他人事感というか、感情が欠如しているのか、そこに体温というものが確認できない。

もともと余生だと思っていたけれど、この数年くらいのあいだでその意識は強まって、真正面から突き付けられて逃げられなくなった。
実家関係や子育てで思うこと、躓くことがあると、
自分の成育歴を直視することを避けずに通ることはできなくて。

昨年からは、宙ぶらりんなのが気持ち悪いから自ら直視しに行こうとしたとはいえ、そうする以外に進む道も戻る道も逃げる道も無かったよね。

おいしくないものでカロリー摂るのも癪だし、どうせ食べるならおいしいものが食べたい。
でも所詮その程度の欲。

以前はおいしいものを食べることが好きだったなぁ。
今はおいしいもの食べたからって元気なんて出ない。
空腹だから、数日食べないと眩暈がひどいから、数日胃腸を空にすると次に何か入れた時にお腹がびっくりして下すから。
しょうがないから義務的に食べるだけ。

なにも面白くない。時間がもったいなくて面倒に思う時もある。
あんなに食いしん坊だったのに、食べるのがつまらないどころか無関心になる日がくるなんて思わなかった。
生物は食べるという本能を失ったら終わりだ、そう言ってたよな。
そうだな、生物としては大分終わってる。


喧嘩を売ったり批判否定する気は全くないが、
宗教二世が「人生を取り戻したい」ということに、私自身はまったく共感できないし、取り戻すという言葉に違和感しか憶えない。

取り戻す?何を?
取り戻す?戻すということは、もともと何かを持っていたの?
え?みんなそうなの?知らなかった。
わたしは持っていなかったよ。なにも。はじめから。いまも。これからも。えいえんに。

自分の人生こうしたいという気持ちには逆らえなくて宗教をやめた人や、
宗教を信じられないから抜け出して、それから自分のやりたい見つけた人って、
何故自分の意思や自分のこれが好きを持ったり発見することができたのだろうかと、わたしには未知の世界だ。
これが信じた者と一切信じていなかった者の違いなのだろうか。

おいしいもの食べるのがすき「だった」ことだけじゃなく、どんな音楽を好むか、どういう性格の人に惹かれるかなど、
全てにおいて本当に自分の選択したものなのか、非常に疑わしいのだ。

つまり、ほんっっっとうに、わたしというものはからっぽなんだな。
からっぽだから宗教の教えにしても、親の都合や意思にしても
たっぷり入り込むタンクだったんだ。
宗教の教えや親の都合によって形作られたわたしの趣味趣向、思考なんて。ね。

そして感情が乱れるとき、これはホルモンや脳が出している信号のせいだとか、
男女の思考や能力の違いについて進化心理学にふれると、遺伝子に支配されているとしか思えなくて、
わたしというものはガワでしかなく、意志をもってコントロールしている本体はホルモンや遺伝子であって、生き物なのに機械的なもの、
もはやガワである癖にわたしが感情や趣味趣向を持つことがお門違いなのだという結論になる。
なんか、全ては神の掌の上、よりも空しいものがあるんだよなぁ。


宗教をやめたあとの人生は自分の責任だ、だから泣き言を言うな、いつまでも過去に囚われるな、他責思考でいるな。

そんな言葉を投げられると不快で不快で、今までは、
他責というか生い立ちに関しては自分が選べなかった以上は自責じゃないし、
泣き言言いたいだけじゃなくて、過去と今と未来を切り離しては前に進めないから過去とも共存して生きる必要がある、
そう思って、自分軸で生きろ振り返ってはなりません前に進め教には抗って来た。

今もそれは大きく間違っていないと思っているが、
どうやら根っこにあるのは、わたしの人生は現在過去未来一度もわたしのものとしては存在していないのだが、
なぜ自分軸と自己責任を求められ、いまのこの状況が自分に努力不足であるかのように他人から認定されなければならないのだろう?という謎が引っ掛かっているみたいだ。

(あとは単純に、自分は努力したから成功を掴めた、成功していない人は努力していないと決めつける驕った生存者バイアス原理主義が嫌い。
あくまで原理主義者ね、嫌いなのは。
成功の下地に努力はあるだろうし努力の必要性は否定しないが、努力したら必ず成功できるわけじゃないことは?自分が努力への万能感がダダモレしてるのが苦手、時代や生まれた場所の運や他人の支えガン無視か?マジ嫌い)


自分のものという感覚のない人生を生きさせられているのはつまらないし、時には苦痛ではあるけれど、
自分のものではない人生を、ガワであるわたしの感情で勝手に終わりにする権利はないように思えて、与えられている命は生きなければならないと思って来た。
自分の命が大切だから、ではなくて、義務感というか責任感。
「なぜ生きる?」と聞かれたとしたらそれが答え。

でもこの数年はそれが崩れつつあって、特に子どものことを考えた時に、
居ない方がマシな親っているよなぁと思うし、
普段文句ばっかり言ってるけど夫にもこんな人生に付き合わせて申し訳ないし、
なぜ自分のものではない人生を生き続けなければならないかもわからなくなている。
そもそも生きてるだけで周囲を不幸にする生まれてこなければ良かったの人だし、そうなるよね。
当然のように、人から死なないで欲しいと言われても嬉しくない。
そう思ってくれることに対しては、身に余る事であり有難くは思うが全く嬉しくはないよ。
自分のこと肯定してないし許せないのに、生きていてって言われて何が嬉しいと思う?

あ、書きながら気付いた、わたしが自分の好きなものを他人に熱く語ったり推せない理由。
肯定していない許せない自分が好きで正義だと思っている、
そんなものはつまり認められない信頼度が低いってジャッジしている自分がいるからだね。
マイナスとプラスを掛けた答えはマイナスになるみたいに。

同じ原理で、自分の深い所にある気持ちを言いたくないんだと思う。
前提として、自分のことがわかっていないから言語化できないということが大きいのではあるのだけど、仮にそれがクリアになったとしても同じ事だろう。
正しいと思っていない人間の感情なんて怪しいもんだし、自分で手繰り寄せた答えなんて穴だらけなんだ。

そうかぁ、だからわたしは確かめるようにどうしてなんでこうじゃないの?って人に聞きたくなるし、いつだって、わたしを肯定してくれる人じゃなく正しく叱ってくれる人を求めているのかぁ。
ちょっとだけわかった、かもしれない。

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