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ぶんけいさんのラジオを聴いて号泣した日

聞き流しのつもりでぶんけいさんのラジオを聞き、気づいたら一時勉強も中止し、気づいたら涙が流れ、もっと気づいたら号泣していた金曜夜。


ぶんけいさんはパオチャンのときから好きなYouTuberだった。でも、グループを超えて個人としてのマインドであったり、志も好きだから、個人としての動画やラジオを聞いているのだと思う。


今日が3回目。前回も前々回も聞いていたけれど、何故か「もしかしたら現実世界でお会いしたら近づけない存在だな」ってすごく感じていた。自分の意見があまりにも立派にあるから。(今回のラジオをもとにするとこのような意見は同じ土俵に上がれていない悲しいコメントなのかもしれない…)あまりにも立派なことに敬遠している訳ではない。コミュニケーションをとるにおいて、私は「へー、すごいですね。かっこいいですね。」そんなことしか言えないのが目に見えるようであったから。対等な関係にはなれない、相手に利益は与えることはできない関係性になるんだろうなって思った。(会える可能性なんてほぼないから心配することではないのかもしれない。)

なんだか怖い存在になってしまったけれど、今日のラジオは純粋に聞いてよかったなって思う。号泣してしまったのは、良かったなの気持ちから。

実は認知とか、肯定感とか、認識とかとても興味がある。(あくまで興味。学問的知識は一切ないけど。)とても興味があるけれど、この種の話って一歩間違えると宗教テイストが満載になって不信感を抱かれるもとになるし、あまり好んで話されるものではない。お便りにあった、「こういう話題でコミュニケーションを取れないから、メイクなどの話をしとこうか」の気持ちはとてもよく分かる。だから、普段はその辺への興味はどこかにしまっておくようにしている。(ばれてないかな…?)しまっておくと、いつしか自分が好きだったことを忘れてしまう。だから、しまわれてしまった感情を思いだせたことが嬉しかった。そして、コミュニケーションをとらなくてもよいラジオという空間で、相手の認知の話を聞けることは興味深い&気が楽でもあった。

そうやって考えると、「私が論理的な話が好き」の障害になっていることは、コミュニケーションをとるにおいて相手との関係性であったり、自分のイメージ作りにマイナスである点が大きく関わっているんだろうな。

これでは、私の周りにこういったテーマに興味のある人がいないことになってしまう。しかし、少ない友達の中にも、興味がある、そういったテーマに向けて自ら行動している友達もいる。

そういった人と話す機会を作れば、私の欲求も満たすことができるような気がするがそうもいかない。そういった人の前では、自分が興味あるということを隠してしまうことが多い。深い話をすることがとても怖い。

こうやって、人間関係築くことが下手になっていくんだろうな。

怖いのは、自分の発言はすべてジャッジされているような気がするから。たまたま、頭の中にぽーんとやってきた言葉を口にすれば、あたかも私の思考回路の第一優先はその言葉になってしまう。意図しない認識をされてしまうかもしれない。あー、あいつには分かってもらえないって思われるかもしれない。

プライド高いな。さらけ出してしまえば、こんなことをいちいち考えなくてもいいのかもしれない。怖いのは相手が怖いのではなくて、自分の株価が下がることが怖い。結局は自分大好き人間なんだな。あー、嫌だ。

そんなことをぶんけいさんのラジオを聞きながら考えた。

思考を巡らせることは嫌いじゃない。だけど、私の思考はぐるぐるしているだけで、深くはなれない。深くなれたら、もっと話す言葉にも自信が持てるのかな?

ところで、思考の深さの計測って誰がするの?結局は自分次第。

泣きじゃくった声、隣人に丸聞こえだっただろうな。恥ずかしい。