見出し画像

不親切な「犬王」という映画


この映画は不親切である。

本作は能楽師の観阿弥、世阿弥と同じ時代を生きたとある能楽師と琵琶法師の物語だ。

冒頭、現代の交差点と思しきシーンから映画はいきなりスタートする。左右に行き交う何台もの車。とともに、どこか陰鬱とした語りが始まる。この物語は源氏と平家が争い多くの命が散っていった、いわゆる「平家物語」の後の話であると。

時は進み、一人の少年が現れるところでようやく物語が動き出す。リアルすぎる蝿の羽音や屈託ない少年の笑顔が印象に残る。少年は海に潜り、そこに沈んでいった平家の遺品を拾い上げ生業としているようだ。家に訪ねてきた立派な着物を着た者たちが、何やら彼らが遺したものを探してくれと話している。拾い上げたそれは、三種の神器の一つである剣であった。その強大すぎる力により、少年は視力を失い父親をも失ってしまう。

頭に響く亡き父の言葉に従い、少年は恨みを晴らす旅に出る。おそらくその道のりは容易ではなかったであろう。この辺りの激しい雨粒の描写や、触れることで物の形がはっきりと写っていく様は見事だ。ある日、少年は不思議な声に出会うことになる。聞くと、どうやら平家没落の話を語っているようだった。盲目の琵琶法師、谷一との出会いである。

そこから少年友魚(ともな)は谷一と連れ立って旅をすることとなる。圧巻の千人琵琶は見ごたえのあるシーンの一つだ。二人は旅を続け、琵琶法師の一座のある京都へと戻る。

場面は前後するが、忘れてはならないのが冒頭に差し込まれる異形の者の誕生するシーン。おどろおどろしい存在への生贄となる赤子の描かれ方は、否応なしに観るものに嫌悪感を与える。その「異形」の赤子も成長し、今では数匹の子犬とともに屋敷の外で暮らしている。飼われているとでもいうべきか。ひょうたんの面を被るその異形は、片方の目玉が口があるはずの場所にあり、面から覗く二つの穴から映る世界だけがこの世のすべてといった印象を受ける。

異形はある日、能楽師である父や兄たちの稽古風景を覗き見る。異様に伸びた片腕を器用に駆使しながら、異形は異形なりの舞を人知れず披露するのだ。このシーンのような軽快なアニメーションは、まさに湯浅監督の真骨頂と言えよう。

舞を終えた異形は、汚れない少年のような二本の足を手に入れる。歓喜の声を上げる異形は、やがて京都の街を縦横無尽に駆け回る。異形の素顔、直面(ひためん)に恐れをなす人々の反応を無邪気に楽しむ異形。

この異形と琵琶法師となった友魚とが橋の上で出会い、物語は大きくうねりだすのである。見えないがゆえに異形をまったく恐れない友魚。ここでの二人の軽妙なやりとりはなんとも心地よい。琵琶を弾き、それに合わせて異形が舞う。名を尋ねられた異形は、名前はないのだとしながらも自らすでに決めているのだと言う。


序盤のあらすじはおおよそこの通りだ。そこから成長した二人が互いを認め合い、平家の魂たちの声を拾い上げ伝えていくというのがこの物語の大筋である。本作の肝は、それまで語られなかった平家の物語を、あるいは琵琶による語りで、あるいは舞い踊り歌うことで民衆に伝え「鎮魂」していくというものである。

では一体この映画のなにが不親切なのか。まずはこの映画の構造に注目してみる。結論からいうと、この映画は「能」である。能とは観客参加型の芸能である。あるはずのないものを感じ取り、見るものの心にすべてを委ねる。必ずしも「正しく」理解する必要はないし、「正しい」能の鑑賞の仕方なども実はないのである。途中で寝てしまったとしても、それはそれで構わないのだそうだ。本作は600年前の、世阿弥により体系化されていく以前の能の世界が描かれている。当時の能は現在のおよそ3倍の速さで動いていたという資料もある。しかし、主人公である能楽師「犬王」に関しては、実在の人物であるにも関わらず名前以外にこれといった資料が残っていない。「犬王」と琵琶法師「友魚」との邂逅の物語。この作品はその当時ありえたかもしれない世界を描く、歴史ファンタジーとも言える作品なのだ。

とはいえまったくリアルでないかというとそうでもない。湯浅監督の得意とする人物の崩れたような動きは鳴りを潜め、あくまでも当時の人々を写実的に描こうとしている。徹底的な歴史考証も本作のリアリティラインを強固なものとしている。服装や使われていた道具はもちろん、歩き方一つとっても強いこだわりが伺える。巨大な琵琶でさえ当時は存在していたらしいというから驚きだ。きっとエレキギターの音色のような衝撃を室町の人々も受けたであろう。

能の話に戻る。この作品が能である所以は、先に述べたとおりこの映画の構造にある。本作は一人の琵琶法師の語りから始まる。この琵琶法師の正体こそが重要なのだ。彼が語る物語、それこそが一つの能になっているのだ。この作品は600年前の出来事を現代に漂う琵琶法師が語り、さらにそれを我々が見届けることによって成立する、いわば入れ子の構造になっているのだ。そう考えていくと、当時を語る描写であっても琵琶法師が令和の現在の人々に伝えるにあたり、現代音楽や様々なオマージュが散りばめられているのもさほど違和感はない。また、600年前の人々、つまりすでに亡くなっている人々のことを語る、その構造自体が一つの鎮魂であり、能の作品になっているのだ。

能の世界ではしばしば人ならざるものや、この世には存在しないものが登場する。舞い唄うことでそれらを鎮め、観るものはそれに魅了され様々に思いを馳せる。あの世とこの世が交わる世界。この映画ではさらに、過去現在未来までもが「交差」することになる。600年という歴史の中で埋もれた記憶の数々、はたまた数多くの華やいだものたち、そして語り継ぐ我々。それらすべてを内包しようとする途方もない作品なのだ。

もちろんこれらはすべて私の推測にすぎないかもしれない。しかし、この作品は多くを語らない。楽しみ方は人それぞれであるが、まずその楽しみ方がわかりにくい部分がある。それこそが能の醍醐味であるとも言えるが、現代の我々にとってはいささか不親切なつくりとも言えよう。わかりやすい物語、違和感のない親切な演出。あらゆるコンテンツの渦に飲み込まれながらも、常に新しいエンタメを求める。もしかするとこの映画は、そういったものから我々を解き放とうとしているのかもしれない。障害者や日陰者、歴史ものやアニメ作品、日本の伝統や海外の文化、あらゆる枠組みを取り払ってあくまで公平にフラットに。様々な物事からの解放。つまり、あらゆる「鎮魂」を行おうとしたのではないだろうか。


これから映画を観る方のためにも極力ネタバレは控えたが、変に構えずにそれこそフラットな気持ちでこの映画を楽しんでほしい。一度観てよくわからなかったという方も、もしよければもう一度繰り返し映画館に足を運んでほしい。きっと新たな発見があるはずだ。繰り返すことでより深く知ることができ、何度でも楽しめる。まさに能の楽しみ方の一つだが、何もそこまで徹底的に能を表現しなくてもとは思う。ともあれ、能が600年受け継がれてきたように「犬王」もまた後年に語り継がれていくのかもしれない。ぜひ映画館のスクリーンで不親切を楽しんでみてほしい。


二ノ瀬 レオ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?