言論の自由について考えたこと
今回のディトランス本の発売停止についてと、少し前にあった児童書の発売延期とどうしてこれほどまでに受け取られ方が違うんだろうかって私は疑問に思っているの
一部が先行公開されていたというこちらの作品は未読だけど、ギフテッドという言葉と結び付けられることがなければきっと問題にはならなかった
ファンタジーで異能力者が活躍するのに似た(より現実的な能力の範囲で
)才能あふれる子供たちたくさん登場するワクワクするような物語なんじゃないかな
でも実際のギフテッドは、適切な教育の場がほとんどない(かつて東大の「異才発掘プロジェクトROCKET」があったけど、今は少し形を変えたんだね)
彼らは日本の学校現場では困難さを抱えることが多く、およそ素敵な学園生活とはかけ離れている
ギフテッドを取り巻く現実は次の記事のような感じだから、認識が誤った形で届かないように配慮して延期ということにしたんだろう
私はこの配慮を良いものだと感じたし、発売延期された児童書が配慮の上で描き直されて読者の手に届く日が来るのが楽しみだなと思っている
まず抗議があったから、そして聞く土壌があったから、そして認識違いを合意できたからこの結果に辿り着いたんだよね
この児童書の話はここで終わる
発売延期したことも、抗議の声によって現実の当事者が被る影響を鑑みて出版社が動いたことも、問題にはならなかったんじゃないかと思う
誠実な作家さんと誠実な出版社だって応援したくもなったしね
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でも今回のディトランスの翻訳本に関しては受け取られた文脈がかなり違っていた
抗議の声によって現実の当事者が被る影響を鑑みて出版社が動くと、どこからか言論弾圧だ、表現の自由の問題だと強烈な反応が起こった
「現実の当事者が被る影響を鑑みて、認識が誤った形で届かないように配慮して」という声が上がったのはギフテッドの時と同じじゃないだろうか
同じことをして同じように取り下げがあった
取り下げを決めたのは出版社だが、非難はトランス界隈に向かった
ギフテッドの例は正当な主張で、ディトランスの例は言論弾圧という文脈になるのはどうしてなんだろう?
そこにはトランスがディトランスの言論を封印したというストーリーが読み取れるからなのだろう
ギフテッドの場合は用語の問題に終始するのでそれがないのだ
*
私はギフテッドという状態や発達障害という状態、トランスであるという状態そしてディトランスという状態について理解が深いとはとても言えない
いくつか本を読んだけどセクシャルアイデンティティが異なっているという状態も、ギフテッドである状態も、発達障害である状態も正確には掴めない
目に見える障害であったって理解は難しい(いっときではなく一生不自由であるという状態を想像できているとはとても言えない)
私が子供の頃同居していた祖父は、麻痺を伴う高次脳機能障害で、私が物心ついた時には自発言語を持っていなかった
私は彼の生活がどんなものかはまあまあ知っているかなと思うけど、でも何をどう感じていたのかなんか全然わかってなかったように思う
*
目に見えない障害を持つ彼らの感じている問題を想像するのはさらに難しく感じる
なぜなら言葉も交わせるし、とても不便があるとは思えない
一見、私となんら変わらなく見えるからだ
不適切な行動として顕在化してもそれがどう言ったところからくるのか、どんな思いでいるのか、なかなか伝わらない
行動が不適切だと罰せられたり、周囲から悪感情を受け取ることにもなる
マイノリティは悪意を持って見られているわけでなくても、善意の人に囲まれていてさえ、ただマイノリティであるというだけで孤独だ
負の経験を積みやすく、自分と同じ人になかなか出会えない(今はネットがあるけど)
彼らは人から理解されない
酷い誤解や差別を受けてもきただろうし、そうでなくても規範とずれている自分を否定しがちだ
だからその気持ちを受け止めてもらうために、自分と同じだと思える人、理解される場所を切実に求める
誤解を解き理解を求めるために黙っていたらダメなんだ、伝えなきゃと決意する
彼らは一進一退となる理解のカメのようなあゆみをこれまでも今も積み重ねてきた
理解が進んだと思ってもこと何かが起きるとグッと偏見の波に押し流されたりもする(発達障害と事件を結びつけるなど)
どんな切実な意見であっても少ないがために後回しにされてしまいがちで、しかも偏見に押し流される
あんまり続くと諦めたくもなるだろうが、そうすると永遠に我慢し続けなくてはいけなくなる
まあいいか、も降り積もると病む
誰にも理解してもらえない、非難されるのが当たり前の世界線にいる
さっきのギフテッドの表現に対する抗議は誤解を助長することを恐れてのものだった
トランスにとってもそうだろう
抗議する側は正確にわかってもらいたい、もう誤解されて苦しい思いはしたくないと思って声を上げているだけだ
誤解や偏見が広まることは、脅しじゃなく命に関わることだと私は思う
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講義することそれ自体が言論弾圧、表現の自由の敗北という文脈にどうすればなりうるのか
声を上げるのは自由なはずだ
集会であろうと、手紙であろうと
爆破や殺害予告、投獄(これは一般にはできないね)などの暴力行為に出たならそれは問題だけど
声を上げること自体がダメなのだとしたら、表現の自由ってなんなんだろう
これまでもPTA団体等、テレビ局や出版社に抗議の声はあげてたと思う
主張には、もっともだというものもあれば、どうなのよってものも玉石混交あったと思う
誹謗中傷でなければおおよそどんなものでも言っていいんだって保障されているのが言論の自由じゃなかったんだろうか
テレビ局や出版社はそれに対して自分で判断して修正したりしなかったりできるんじゃないのだろうか
判断によって投獄されたり強制的に検閲されたりしないことが保障されているんじゃないの
あらゆる種類の出版物はどの団体がどんなに辞めてって言ったって出されるよ
偽情報だらけのトンデモ本であろうと、酷い刷り込みがされる暴露本だろうと、政府を非難する本であっても、どんな陰謀論だってちゃんと出されてきたはず
女性差別を助長するもの、発達障害や子育て本だって誤解だらけのものがいくつも出されているのが現実じゃないの
それくらい言論は保障されてきた
当事者や関係者が嫌だっていくら言っても、どんなに誰が傷つこうとも、誤解を打ち消さなくてはならない相手のコストを考えることなく出してきたでしょう?
誰に何を言われようと、出すか出さないかを決めることができるのは出版社だよ
ギフテッドにしても、トランスにしても出した先起きることに責任が取れるかどうか判断したのは出版社だよね
責任の取れないものは出さない
出版社が責任を持ってそう判断した
それに対する異議申し立てはもちろん私たちに保障されている
件の本を読みたい人もディトランスの人も声を上げ、集会したり出版社に要望や異議の手紙を送ったり、自由にできるはずだ
*
出版社やテレビ局は企業で、だから公権力でなくともなんらかの圧力のために言論の自由を手放すことはあるとは思う
ジャニーズの件で口をつぐんだのが良い例だし
今のガザの件だって、日本の報道は……と言われてはいる
色々と情報入手先を持たないとまずいのかなって思うこともある
私には情報リテラシーが足りないなと実感するけれど……
でも今回のディトランス本に関してはそれはあり得ないと私は思う
人口のたかが数%のマイノリティの言葉がどうしてそんなに強大になり得るのか、考えたら不自然すぎる
LGBTQの人たちにそんな力があったなら、例の法案だってあんなにマジョリティの許可する範囲で権利があるというようなものにはなり得なかった
ジャニーズの件でテレビ局が口をつぐんだのはジャニーズにそっぽを向かれたら出遅れてしまう、成り立たないというまでの圧倒的な力がジャニーズにあったから
毒親とその子供のように、世話を引き上げられたら生きていけないというような不均衡があったからだろう
トランス界隈にはジャニーズのような力はあり得ない
どんなに集まろうとパレードしようとほとんどの人が関心を持たなかったような人たちだ
LGBT法案を作ることも外国の流れなしにはできなかった人たちだ
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なら、なぜ今言論弾圧だ、表現の自由の問題だという騒ぎになっているのか
とても不自然だ
今回私が感じたのは、出版社の判断に乗っかって、それくらいトランス界隈はやばいんだよって文脈をバズらせるのが目的の人がいるんじゃないのかってこと
関東大震災の時に朝鮮人が強奪火付けをしてると言い回った人たちのように、差別したくてたまらない人がいるんじゃないの
そうじゃなかったらどうして今回だけそんな動きになるの?
当事者やアライが違うよって強く言えばいうほどヤバさの証明だってなっちゃうのはなんでなんだろ
私にはわからないよ
これは私の妄想かもしれないし、そうであってほしいと願うけど
LGBTの連中は出版社が本を出せなくなるくらいの圧力をかけられる団体なんだっていう刷り込みを行うために、出版社の「被害者に配慮して取り止め」という発表を利用した人がいるのでは?(根拠のない妄想はここまで)
*
誤解を打ち消す困難さについて思うことを少しだけ
かつて冷蔵庫のように冷たい母親のせいで自閉症になると言われたことがあった
流布された認識はそう簡単には払拭できない
説が否定された今でも心のどこかにこの認識は残っていて、ふとしたときに湧き出して、母親を責めているんじゃないかと私は思っている
発達障害は食べ方で治るとか、育て方で治るとかいう論は今でも出版もされている
現在はそれがトンデモだとわかる人が増えたから誤解を打ち消す困難さは下がったがかつては大変だったはずだ
今、誤解を打ち消す困難さは、言論の自由を堅持するための必要コストだと考えられていると思う
つまり私たちは言論の自由のために誹謗中傷に当たらない限り他者のどんな言動も出版物も止めることができない
その影響がどれほど甚大であっても
必要コストという言葉で処理するには重すぎる結果を見ることもある
それでも言論の自由は保障されるべきだと今の私は思っている
しかしそのコストに押しつぶされる人たちのことを私たちは絶対に忘れてはいけない
見つめ続けることが必要なのだ、特に書き手や出版社には
責任があるのだ
安全な場所でものを言っているんじゃない、影響を与える覚悟を持って出す、または出さない判断をしなければならない
言論の自由が定められた当時にはSNSがなかった
今SNSで私たちは気軽に、なんの覚悟もなく呟く
自由な場所
今回渦を作ったのはそのSNSだった
関東大震災の流言卑語は多くの朝鮮人の命を奪ったが、誰がその責任を取ったんだろうか?
普段私たちは言った先から忘れてしまう発言のいちいちに責任を取ってなどいない
形に残るSNSはそういう意味で出版物と会話の間になるのかもしれない
デジタルタトゥーとかいうしね
この辺りの責任については事件が起こるたびに問われてきたと思うが、未だ不十分だ
今回の本の件をSNSで言論弾圧、言論の自由の文脈で発言した人たちには悪意なんかない
福田村事件で朝鮮人と間違って讃岐人を殺害した後、自警団が「村を守ろうとしたんだ」と発言したのと同じく、ただ言論の自由を脅かされているという文脈を信じ「言論の自由を守ろうとしたんだ」というだろう
朝鮮人は火付けなんかしていない(そもそも殺されていいはずがない)
トランスは弾圧なんかしていない
そういうものがあるという文脈(ストーリー)を流したのは?
なんのために、どんな利益があって?
このことで得をしているのは誰なの
そして結果、差別の色を塗り込まれる人たちのことを私は思う
今回の件で物申す相手がいるのなら、それは出版社が相手にしかなり得ない
読みたいと要望を出すといいと思う
その代わりLGBT側に向けた矛先を下そう
彼らには出版を辞めさせることなんてできない
誤解を打ち消すコストを払わされる当事者が「本が出なくてよかった」と言うのはあたりまえだし、それこそ自由なのだから
私が自分の問題に関わるトンデモ本が出版取りやめになったら、やっぱりおんなじように出なくてよかったって言うし、なんなら出版社英断だねって思っちゃう
私はフットワークが重いのでそう呟くかわかんないけど、呟きたい気分にはなる
それは自由
反対に私から見たトンデモ本が世界を救う本だって思う人にとってはショックだし、出版社よ考え直せって言うだろう
心待ちにしてたのにと恨み言の一つも呟きたくなる
呟こう
でもどんなに配慮された相手が気に入らなくても感情の矛先は出版社なはずだよ
これらの個人のSNSが作る渦は止められない
って言うかこれ止めたらそれこそ言論弾圧だよね?
問題は山積だとしても言論の自由は保障されるべきものに違いない
コストを払う側のことに思いを馳せつつ
出版取りやめと言論の自由に関することで私が言いたいことはこれでおしまい
*
それはそれとしてディトランスの困難やなぜ増えたのかついて、私は関心があるし引き続き考えていきたいと思う
それについてはまずこちらを読んでみようと思う(現在半分くらい)
ディトランスと聞いて私はまずこの論文にあるところの
「ディトランジショナーは出生時女性に割り当てられた人が多く、本当はジェンダー規範による抑圧がジェンダー・アイデンティティの誤認を引き起こしているだけだ」と言うのがパッと浮かんだ
なぜならそれはシス女性の私が子供の頃にジェンダー規範によって与えられた無価値観によって「男の子だったらよかった!」と思ったことがあったからだ
もし「間違って」自分がトランスではないかと思い込むとしたら私の場合これに違いないからね
だとするとトランスどうこうに矛先を向けてないで、社会の側にあるジェンダー規範の問題を解決する必要があるだろうと単純に発想するのだが……
ディトランスの現実はもっと多様なようだ
トランスであるということについて、相手の靴を履けない状態で想像する限界はこの辺りにあるんだろう
なので一旦決めつけないで、一旦自分を外に置いて彼らの困難に寄り添って話を聞こうと思う
読書に戻ります
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