#1 美の基準を誰かに押し付けるのは呪いだ

今やデパ地下だけでなく100均でもコンビニでも大抵の場所で化粧品が手に入るようになり、「プチ整形」と呼ばれる新しい美容整形の区分が現れるなど、美しくなりたいという願いを叶えるツールが世の中には溢れています。

*「プチ整形」…俗に言う整形と違いメスを使わない施術のことを指すようです。

私も自分の顔のコンプレックスをカバーできると話題になった化粧品を何個も試し、強くコンプレックスを感じる部分に外科的施術(要は美容整形です)ができるクリニックを検索したことがあります。

ある意味以前より美しくなりたいという願望を叶えられるようになったとも考えられますし、自分がなりたい顔に近づける喜びが味わえるようになったのも事実です。その一方で、終わらない美への追及に苦しむ人が増えたり、インターネットで見る広告や極端なダイエット方法から世間が求める外見の美しさもエスカレートしてると感じることがあります。

そもそも、外見の美しさってなんでしょう?美しい人って?

日本人女性の場合、肌が綺麗であったり目が二重であったりスレンダーな体型の女性に憧れることが多いでしょうか。

でも校庭を駆けずり回っている小学生の時にこれらの美の基準を意識することって少ないと思うのです。つまり、成長過程の何れかで獲得した情報が美の基準になっていくと考えられます。雑誌の不正確な情報、みんなが憧れるモデル、外見イジりをされる芸人。

マスメディアから受ける影響が大きいと思いますが、私が言いたいのはマスメディアのせいだ!!といったことではないのです。

では、芸能事務所はどうして似たような美しさ(上記の一般的に憧れるような外見)のモデルを雇うのか?どうしてあの芸人は外見のあの欠点をいじられるのか?

この疑問を芸能事務所や芸人の外見イジりをした出演者に投げかけたところで、明快な答えは返ってこないでしょう。

だって彼らも知らず知らずの間に植え付けられた価値観に従っているだけなのだから。


結局美の基準は誰が作ったのかも分からないのです。

だからといって自分の外見のコンプレックスを受け入れることは容易ではないことは、自分も当事者として感じています。私の抱えているコンプレックスは私自身の悩みとしてずっと残り続けるかもしれません。

ただ言えるのは、その誰が作ったのかもわからない美の基準を他者や社会に押し付けるなんてことはあってはならないということです。

テレビで見る出演者の外見イジりや、外見を揶揄するネットの誹謗中傷も、世の中に蔓延る美の基準というものがどれほど曖昧でふざけたものかを自覚していれば存在し得ないものです。

もっと言えば、人の外見について言及すること自体がなくなればいいなと思います。

根底にある文化が違うのも事実なので海外と日本を比べることはあまり好まないのですが、日本人が人と会ったときに「痩せた?」「かっこよくなったね」等外見について言及するのは他の国ではあまり見受けられないようです。

それはやはり外見について無関係の他人が言及する範疇のことではない、という認識があるからだそうです。

こういう一言は誹謗中傷と比べたら攻撃的な意味はあまりないかもしれませんが、何気ない一言も積み重なれば植え付けになりかねない、と思います

痩せることと美しくなることは必ずしも結びつかないし、その人の心身の健康にとってプラスであるとは限らないにも関わらず、赤の他人が痩せてかわいくなった・垢抜けた等と言及することは全く不必要なことであり、たとえそれが一般的な価値観であっても、自分の持つ価値観に目の前の人を勝手に当てはめているだけに過ぎません。

そして繰り返し似たような価値観に当てはめ続けられた人は、その価値観を同じように獲得してしまうのです。

実際に交際相手から外見について幾度も言及されたことが原因で醜形恐怖症に陥るケースがあるそうです。

この悲しい美の基準の伝承が絶える日が来ることがあるのかわかりませんが、少しでも人がいかに曖昧な美の基準に依拠して生きているのかが世間で認知され、人に呪いをかける外見への指摘がこの世から消え、終わらない美の追求の苦しみから解放される人が増えればいいなあ。

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