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陸軍中野学校教師の孫からみた陸軍中野学校 その2

いくつかの文献を読み込むと、陸軍中野学校が出来てから解体されるまでの変遷が見えてきた。

初期 1938~40年(昭和13~15)の3年間
中期 1940~44年(昭和15~19)の5年間
後期 1945年(昭和20)の敗戦まで

初期はおよそ軍人には見えない容姿、思想をもった人物を厳選し、学校の存在そのものも陸軍内部ですら厳密に秘匿されていた。
自由主義が貫かれていたために、生徒たちの議論では天皇批判すら当然のように行われていた。
愛国のための諜報活動を叩き込まれ、率先して行っていった人たちがこの時期の卒業生だと考えられる。

ちなみに「諜報活動」というと日本では「スパイ活動」の印象が強いが、実際はジャーナリストに近い。
敵陣にて情報を得て、それを味方に伝えるというだけのことだ。
映画のように暗殺などはしない。

中期になると、陸軍内部でもその存在が知られ、戦争のための諜報員、いわゆるスパイを養成する学校に変貌した。
「戦争に勝つ」ことが命題となり、平和を維持するための「諜報」とは違う教育が行われたと見られる。参謀本部付となったのもこの頃だ。
文献によると、毒の量を調整することで狙った時間に死に至らせることも可能で、そういった教育が行われていたという。
なお後年、日本映画などで題材として扱われるのはこの時期の話だが、概ねフィクションであると言われている。

後期にいたっては、いわゆる本土決戦のゲリラ戦を行うための教育を行っていた。
大人はほとんど戦場に出ていたので、主に少年が教育されていた。
ルバング島から帰還した小野田寛郎氏はこの時期の生徒である。

この様に、陸軍中野学校は時代を経て変容してきた経緯がある。
たった7年のうちに変わっていった主義主張、教育方針、軍部の扱い、それらをまとめてひと括りにすることは難しいと私は思う。

せめて当初の目的がそのまま遂行されていれば、日本の今はもう少し違ったものになっていたのかもしれないと、過ぎ去った時間に期待してしまう。

祖父がどの期間に教師として赴任していたのか定かではないが、愛国心をもって教育に携わっていたことは確かだと信じている。

つづく