もうちんぷんかんぷんです

Q.14万4千人とは


144000=1200×12 ですので、完全数×100(これも完全数)×完全数に相応の意味があります。

「十四万四千人」は144000人の人を表すのではなく、「善から諸真理の中におり、そこから主のお教会の中にいる凡ての者」を指します(『黙示録講解』430イ(第5巻74頁))。



Q.黙示録が全体的に福音書のイエスさまの様子や言葉と雰囲気がずいぶん違うので、怖いというか恐ろしいというか、いつもの愛に溢れたかんじとは違いすぎていて戸惑っていたのですが、これを思えばそう悲観することはなさそうですね。


新約聖書では黙示録の特異さが目立ちますが、旧約聖書では、預言書に同様の黙示が繰り返し出てきます。黙示録はダニエル書、エゼキエル書、イザヤ書等の焼き直しと言われるのは、確かにそれぞれから持ってきたような表現がちりばめられているからです。

「戦士たちの肉を食らった」等の表現は預言書にも出てきますが、イエス様も「私の肉を食べ、血を飲まなければ」と語って、ユダヤ人たちを「この言葉は固い、あなたたちはなぜ奴の言葉を聞いているのか」と躓かせました。



Q.プロテスタントの携挙という考え方も誤っているのでしょうか?


その通りです。スエデンボルグも当然再臨の本当の意味について言っていますが、ヒルティもその良識から、世界の全人類に一律に到来する最後の審判、世の終わりというのを、それがあるとは思われないとはっきり述べています。神の導きは一人一人を個別的に扱われるものだからとの理由からです。

そして、さらに言えば、イエス様自身が仰っています。

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」

ルカによる福音書17章20~21節。


どうして行わないのですか?とイエス様がはっきり行うように仰っているのに、行いではない信仰だけで救われるのだとプロテスタントが教理の核として声高に宣言するように、全世界に到来する終末という終末論も、すでにイエス様自身はそれはないよと明言してくれているのでした。



Q.旧約の時代の神様がなんだかイエスさまらしくなくて怖いというか、変に感じます。常に罰を与えるか、試練があるか、ずっとそんなかんじです。

アブラハムに息子のイサクを生贄にさせようと試したり(イエスさまは弟子の命を試すようなことはしなかったですよね、もっと小さなところでは試されたかもしれませんが。そして「信仰心のない者たちよ」と嘆きはしても、罰は与えなかったです。さらに「いけにえは好まない」とはっきりいっている!)もうちんぷんかんぷんです


神は妬みませんし、怒りません。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」(マラキ1:2,3、ローマ9:13)という依怙贔屓を神はなさいません。ヤコブもエサウもどちらも神の子で、神はどちらも自分の命のように愛されています。

「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」ルカ16:15

神は憎み、嫌いません。太陽は熱(愛)と光(真理)しか注げないのです。それを受ける人間の側の不健全な状態が、その熱と光が苦痛となり、耐えがたくなり、苦悩し、「神に憎まれ嫌われた」と感じ、そのように聖書では表現されているのです。

タバコを吸って肺がんになったとき、「タバコを吸うという罪をしたから、神が自分を罰してガンで苦しめるのだ」という人がいるかもしれませんが、それは神がその人を癌にして苦しめたのではありません。その人が、自分の体の定めに合わないことをして、身体を不健全にし、自らにガンを招き、その結果の苦悩を感じているのです。


イエス様は人の信仰を試すのに、あなたの子供を犠牲に捧げよとは言いません。旧約聖書にも何度も出てきますが、当時、異教の民の間で、マヤやインカ帝国のように、自分の子を捧げて神に仕えるという邪宗があり、イスラエルの人たちも幾度となく、それらの邪宗のまねをするようになりました。

ユダヤ人のそういった性向を持ったアブラハムは、取り巻く悪い霊にまどわされて、神が自分にそう言ったと強い確信を持つようになったのです。

だから、アブラハムは天国にはいません。ヤコブやダビデもソロモンも当然そうです。

「天国にいるアブラハム」というのは、アブラハムに相応して示されるもの(天的愛)を表して、そのように表現されているのです。またみ言葉で「ダビデ王」と出てくるときは真理を表します。


イスラエルの民がカナンの地に入り、その土地に住み着いている民族を皆殺しにしながら(聖絶)征服していきますが、神はそのような命令を下しません。イスラエルの性向に合った残虐な霊の作用を、彼らは受け、それを「神が~と命じた」と感じ、そのように記したのです。そして、神は、それを相応によって、後代の人に、神の真理を伝える媒介として用いられたのです。

アメリカ軍で戦争を正当化するのに、軍隊では、旧約聖書のそれらの記述を神の意思として伝え、兵士らを洗脳していきます。オウム真理教の生まれ変わらせてあげる「ポア」(=殺人)と変わりません。



S.ちょっと一休みして、福音書に戻るか、先生の紹介してくださったスウェデンボルグのPDFに目を通してみようかと思います。


『天界の秘義』は上述してきたような、み言葉についての相応についての解き明かしの宝庫です。少しずつ、読んでいかれるといいですよ。

血生臭く、残虐でどろどろとした歴史書が読みにくい時は、詩編や預言書から読むのもよいかもしれません。そこにも、相応の知識がなければ、一見、愛の教えと反するように受け取れる表現が出てきますが、それは誤った読み方です。

聖書の秘義がだれにも彼にも伝わらないように、そのような粗野な表現でカモフラージュして、人々が真理に至らないように、守られているのです。エデンの園の入り口で、ケルビムが燃えて回転する炎の剣で、人々が入らないように守っているように。

「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」マルコ4:11,12

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