今日の嬉しかったこと

休みでほっこりしていたので
餃子を作りました。
   自分のためだけに餃子をつくるって
   うふふな時間❤
で、娘たちに写真付きでラインを送ったんです。

左:甘味噌 右:酢醤油ラー油


そしたら、まずは次女から
美味しそう、めっちゃきれい!と共に
『餃子の包み方同じや!(笑)』ってきました♪

なんかもう、めっちゃ嬉しくて
この包み方、私の母も同じのはずなんです(笑)
だって、母から教わったから🌸
餃子の包み方が同じってだけで
なんでこんなに涙が溢れてくるんだって
自分でも驚くほど
嬉しくて幸せな氣分を味わっていました。

すると、長女から
餃子いいな!
『明日餃子つくろうかって思ってたとこ!』
ってきました♪

うふふ~(#^.^#)
離れていても繋がってる感触。
愛おしいような尊いような
何とも言えない感触を味わいながら
餃子を完食しました♥


わたしが”幼い思考”だった頃、
(遠い昔じゃなくて、わりと最近の話しやけど(笑))
家族って一つ屋根の下で
みんなが一緒に笑ってるイメージだった。

なんて視野の狭い、選択肢の少ない、
偏ったイメージだったことか。
で、これを得たくて家族を犠牲にしていたことがあった。

わたしの幸せの象徴が
『家族一緒』であり、
その関係性は、『いつでも温かなもの』であり、
いつかどこかでみたドラマなのかなんなのか
家族が同じ方向を見て一緒に笑ってるものだった。
そんな貧弱な象徴や望みを叶えるために
家族にその像を強いたり
自分も哀しくても笑ったり
家族だけでなく自分の心も犠牲にしてた。

なんて本末転倒。

わたしは、なにをしていたんだ!!!
これぞ盛大なやらかしではないか!!!

この窮屈さが夫を別の安らげる女性に向けたのかもな・・・。
うん、これは、随分前に氣づいていたけれど
なんか、もう一段深いところで納得した氣がする。

あんなに必死でとりつくろって
自分が思う幸せな家族を創り上げようとしていたけど
わたしが何とかして家族を幸せにするんだって
力んでいたけれども、
目の前の人を大切にするとか
目の前の人を笑顔にするとか
自分自身を大切にするとか
一番、大切な欠かせないところを
すっとばしていたよ。

思えば、そもそもわたし達は不幸せではなかったし
そんなに必死で幸せをとりにいかなくても
すでに自分たちの内側に
家の中のそこかしこに
幸せは充満していたな・・・。

なにかをやり遂げなければ幸せにはなれない、とか
これとこれがあれば幸せ、には最新の注意を払わなければ
うっかり誰かの(特にメディアの)幸せを
自分の幸せと刷り込んでる可能性がある。
そもそもの定義を偏って捉えている可能性がある。

消費を促される仕組みの中では
足し算が幸せって信じがち。

この正反対の
創造を促す仕組みの中ではどんなだろう。
引き算が幸せの氣づきの引き金をひき
引くことも足すことも本心からの選択であれば、
いや、引いたり足したりすることなく
すでに今、
自分から幸せがあふれ出ていて
幸せの真ん中にいるんだって分かる世界なんじゃないかな~。





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