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100分で名著 夜と霧 諸富祥彦著

数年前「夜と霧」ヴィクトール・フランクル著(池田香代子訳)を読書会で読んだことがあります。
強制収容所という極限状態に置かれた時、人間の精神がどの様に変化するのか。自分も同じ極限状態にいながら冷静に観察するフランクルの姿に驚いたことを覚えています。

そして、その時はフランクルが伝えたいと思っていたことを理解せず、彼の訴える言葉が自分には届いていなかったことを知りました。

今回フランクルの言葉が深く自分に刺さったのは、前回と異なり理解しやすい解説本であることがあげられると思います。
しかし、最も大きな要因はくも膜下出血を発症してからの一年半、なぜあの時助かったのか、後遺症を負った身でこれから何をすればいいのか、悩み苦しんだからのような気がします。

私の拙い感想ではありますが、病や怪我、また天災などで大きく人生が変わってしまった人がこの本を手にするきっかけになればと思っています。

やりたい事が見つからない

退院後、特に高次脳機能障害がわかってからの悩みは「やりたいことがない」でした。
生きがいであったボランティも趣味もできない、これから何をよりどころに、何を楽しみに生きていけば良いのだろうか。

周りの人は簡単に「出来なくなったことではなくできることに目を向けましょう」と言います。でも、そんなに簡単にはいきません。

麻痺が残ったとはいえ歩くことは出来ます。以前のようにスムーズでなくとも左手も動きます。高次脳機能障害はあっても話すことも読むことも書くこともできます。確かにできることはたくさんあります。
でもできることの中からやりたいことが見つからないのです。

どうしても以前やっていた特にボランティアから心が離れません。何度となく諦めよう、自分に言い聞かせるためにも周りの人に宣言してみたりしました。でも自分を偽ることはできずすっと苦しんできました。

残された機能の中でやれることは何でその中でやりたいことは何なのか。
そんなことも見つからないのに、この先の人生、何を楽しみに生きていけばいいのか。自分が助かった意味はあるのか。いや何故助かってしまったのか。考え始めると最後はいつも「こんなことなら助からなければ良かった」そこに行き着いてしまいます。

もっと重度の後遺症に悩む人がいることも重々承知です。けれども後遺症の大小ではなく、"私が私で無くなってしまった"そのことにこの一年半苦しんで来ました。

人間は常に人生から問いかけられている

ずっと何のために、何を求めて生きていけば良いのか、そう思って来ました。しかしフランクルは

人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである

100分で名著「夜と霧」

残された機能のなかで自分がやれることやりたいことは何かではなく、人生がどうやって生きていくのかを私に問うている。

ナチスの強制収容所で人間は天使と悪魔に分かれたと言います。まだ温もりの残る死体から靴を剥ぎ取る者もいれば、自分も飢えているのに弱っている人にパンを与える者。

同じ極限状態に置かれていても、どちらの行動を取るのかはその人の意思に任されている。運命が人をどんな状況下に置こうとも、どんな行動を取るかの自由は奪うことができないというのです。

同じようなことをきっと色々な人が語っていることでしょう。でも、強制収容所という場面でそれを目の当たりにしてきたフランクルの言葉は、比べものにならないくらい重い気がします。

意味と使命

「何のために生きているのか」という問いの答えは、私たちが何もしなくても、もうすでに与えられてしまっている。
したがってむしろ、私たちがなすべきこと、行うべきことは、私たちの足下に、常にすでに送り届けられてきている「意味と使命」を発見し、実現していくこと。「自分の人生には、どんな意味が与えられており、どんな使命が課せられているのか」—それを発見し、実現するように日々を全力で生きていくこと。ただそれだけであり、私たちは、何も、それを求めて思い悩む必要はないのだ。

100分で名著「夜と霧」

自分の人生には意味があり使命がある。そこがまず第一条件です。
こんな人生になんの意味があるっていうんだ!ではなく、ちゃんと私の人生にも意味と使命は用意されていて、あとはそれを探しながら使命を全うできるように毎日一生懸命生きるだけだというのです。

なんでこんな病気になり、後遺症を負ってしまったのか。考えても仕方がないことを延々考えて来ました。
でも、くも膜下出血をおこし、麻痺と高次脳機能障害という後遺症を負った自分の人生にも意味と使命がある。
そんなことを思ったこともありませんでした。
「夜と霧」はすでに読んでいる本です。でも微塵も頭に残っていませんでした。

くも膜下出血を起こす以前、私には年単位に及ぶ辛い時期がありました。やっと辛いことから解放され、これから自分の人生を自分らしく生きて行こう、そう思い始めた矢先の発症でした。だから余計に自分の人生は一体何なんだ。どう生きて行けというのか。そんな気持ちが強くありました。

一日中ぐるぐると考え、頭が機能しなくなり、自暴自棄というのでもない、ただもうただひたすら人生に疲れてしまった。そんな時がありました。

でもそれを乗り越えた(と思いたい💦)今だから、フランクルの言葉が私に呼びかけ私も受け止めることが出来たのかなと思います。

あなたがどれほど人生に絶望しても、人生の方があなたに絶望することはない

人間は極限状態の中でも天使と悪魔に分かれる。
としたら日々の生活の中で天使を選ぶことは容易なのだろうか?
そんなことがふと頭をよぎりました。と言っても易きに流れるのが人間の性。気を付けていなければ悪魔の囁きに負けそうになることでしょう。

後遺症が残る身で今後どう生きるのか。
それは誰も邪魔することのできない私に与えられた自由です。
そして私の人生には意味があり使命がある。意味があるのか?疑問ではなく断定です。
何のために助かったのだろうとずっと思って来ましたが、何かのために助かった命なのです。

フランクルは、「人生からの問い」として与えられた困難を徹底的に悩み抜き、苦しみぬいた絶望の果てにこそ、一条の希望の光が届けられてくるという人生の真実を多くの人に伝えていきました。
フランクルは言います。
「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生の方があなたに絶望することはない」と。

100分で名著「夜と霧」

たとえ私が人生に絶望しても、人生の方は私が意味を見出し使命を実現することを待っている。

たまたまあるコミュニティで、
「想いを発信することがあなたの使命なのかもしれないね」
そんなことを言われました。

自分に与えられた使命なのか否か?それは書き続けている中で見えて来るのかもしれない。でも自分の人生の意味にはなりつつある。そんな気がしています。

そしてフランクルのような立派な使命ではなくとも、私の人生には私に与えられた使命があるのだろうそう思いました。

当事者同士で話したり文字でやり取りをする中で、多くの人が自分と同じように「助かった意味」を見出そうとしています。そして「いっそ助からなければ良かった」と思っている人も少なからずいます。

その言葉がいかに家族を傷つけるのか知りながら、言わずに居られない当事者の気持ちを理解していただけたらと思います。

ただ、そんな辛い思いを抱えている当事者、そして当事者と同じくらい辛い思いで見守る家族にもフランクルの言葉が届いたら、そう願って読書記録をしたためました。