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入浴介助について

車椅子の方が映画館に行った時と同じような状態にまたなるのだろうか?
Xで入浴介助がトレンド入りしているのを見て思いました。

入院中に異性に入浴介助された一患者としてこの問題に対する考えを述べてみたいと思います。


女性障害者の訴え

元になっている記事はこちら↑

女性の障害者が異性による介助を受け入れざるを得ない状況にあることが述べられています。そして
「障害者が性を持たない存在として扱われること」
「望まない異性介助は性的虐待である」
そんなキーワードが並んでいます。

何かを訴えるにはこういった強い言葉が必要なのだろうなと最近思うようになりました。

私が引っかかった言葉

私がこの記事の中で目を向けて欲しいと感じるのは、こういう強烈なキーワードではなくむしろ
「入浴介助に初めて男性が来たときは泣いた」
「男性でも良いと納得しないと心が保てない」
といった当事者の気持ちを吐露する言葉です。

「力が必要だから男性介助者の方が適切という現実もあるのではないか」
「女性介助者が足りないなどの事情もあるだろうに」

記事に対する否定的な意見もポストされていますが、私が思うのは様々な事情は理解した上で、当事者が発信する「嫌だ」「辛い」という気持ちに声を傾けてほしいということです。

介助される側の気持ち

私も入院中、異性による入浴介助に嫌な思いをしました。

その時は既に自立歩行は可能でしたが、目が見えなかったため入浴の際には手助けと見守りが必要でした。

人手不足だったのか頼んでも何日もお風呂に入れてもらえず、
「毎日お願いしているんです。何とか今日はお風呂に入れて下さい」
そう看護師さんに訴えたところやってきたのが男性の介助者でした。

いつもは女性の声なのに「お風呂ですよ」と声をかけたのが男性で正直断ろうかと思いました。けれども、なんとか入れてほしいと訴えたのに断ったらわがままと思われるのではないかと思いとどまり、そのままお風呂へと向かいました。

恥ずかしさいっぱいでお風呂に入りながら
「若い女性でもないのに恥ずかしいとか入れる方が嫌だよ」
なんて思われているのではないか、などぐるぐる考えました。

そしてこれは無理に入れてほしいと訴えたための罰かもしれない、と二度と自分からお風呂に入れて欲しいと頼むのはやめようと思いました。

声をあげにくいのは若い女性だけ?

ポストの中に
"若い女性が異性に介助されるのが嫌なのは理解できる"や
"若い女性だと可哀想"
そんな意見があるのを目にしました。

でも、若くない女性である私も嫌でした。
男性だって老若に関わらず嫌だと思う人はたくさんいると思います。

私が感じたように、若くもない女性や男性の方の方がかえって
「恥ずかしい」「嫌だ」
と声をあげにくい場合もあると思います。

年齢や性別関係なく"異性による介助"というものについて取り上げる必要があるのではないかと思います。

今後の介助の問題

眼科病棟に移った時は、私も含め同室の術後の患者さんは
「トイレに行くときはナースコールをして下さい」
と言われました。
でも看護師さんは忙しそうでナースコールを押すのが躊躇われました。

また、実際に忙しいのかナースコールをしてもなかなか来てもらえなかったり、自分がトイレへ行くだけのために来てもらうのは申し訳ないと看護師さんが来た時を見計らってトイレをお願いしたりしていました。

そしてなるべくトイレに行かずに済むように水分を控えている、なんて話を患者同士でしていました。
でもトイレに行きたくないから水分を控えるって身体に良くないですよね?

脳外科でもトイレに人の手を借りなければならないことは辛いことでした。排泄や入浴といった部分は人間の尊厳に直結することを思い知りました。

今回は異性による介助が問題となりましたが、私はもっと根本から解決されたらいいなと思っています。

同性・異性以前に、人の手を借りなければ排泄や入浴ができないこと自体が屈辱的だと思うのです。だから、もっともっと科学が発達してロボットによる介助が早く実現されるといいなと思っています。

それと同時に
"手を借りなければならないのだから我慢するのが当たり前"
という風潮がなくなることを願っています。

手を借りる借りない関係なく、年齢や性別に関わらず
"異性に裸を見られることは嫌で辛い"
その気持ちにフォーカスし、辛いという訴えを何とかできないだろうか?と考える社会になってほしいと思います。