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【白老の国立アイヌ博物館】

私の実家がある登別市の隣に、白老町があります。
白老町には昔からアイヌの集落がありました。
私たちも小学校の時、社会科見学で白老の博物館を訪れてきました。
昨年、博物館があった場所に、ウポポイ(民族共生象徴空間)という国立の博物館が建てられました。
非常に大きく、立派に生まれ変わった博物館へ行ってきました。


【アイヌの考え方】

アイヌは独自の言語を持っており、和人とは全く違う文化を持っています。
特に私たちが学ばなければならないのは、自然との向き合い方だと感じました。
アイヌとは人間のことです。
カムイとは、動植物、太陽などの天体、山や川、雷などの自然現象のこと。それに人間がつくった道具類などで、これらは人間同様にラマッ(霊魂)があると考えられています。


【クマのカムイ】

人間にとってクマをとるということは、 肉や毛皮を贈物としてアイヌの世界へやってきたクマのカムイを客として迎えること。
カムイは良い心の人間を選んで、その客人となります。
客であるクマのカムイを迎えた人間は、肉や毛皮などをもらいます。
お礼に感謝を述べ、供物などを捧げ、踊りや語りを披露して、カムイの霊魂をもてなします。
クマの霊魂は、 幸せに奥山(神と人間の世界の間)に帰ります。
カムイは奥山に帰ると、 他のカムイを招き贈物を振る舞い、アイヌの世界を訪れた土産話をし、カムイとしての霊力を強めます。
カムイにも良いことがあるので、再びアイヌの世界へ行き、人間の贈物を得て、奥山ヘ帰ってきます。
こうして、奥山と人間の世界の行き来を繰り返し、やがてカント(神の世界)へ戻ります。


【イヨマンテの様子】

イヨマンテとは熊祭りのことです二年ほど育てた子熊を奥山へ返す儀式をするわけです。あまり直接的な言い方は良くないと思いますが、つまり解体して肉と皮をいただきます。この儀式を見た時、驚きました。杭にしばりつけたクマの子どもに、花矢というきれいに装飾された小さな矢をぶつけ続けるのです。これは、アイヌの民族にとっては、クマを遊ばせ、カムイへの贈り物と考えられています。しかし、悪い言い方をすれば、動物の虐待とも見られかねません。これってどういうことかを考えなければならない気がしました。


【命をいただく形をどう作るか】

花矢をぶつけた後、首を丸太ではさんで絶命させます。
二年間ほど、大切に育てたクマをカムイの世界に返すためです。
しかし、愛情をもって育てているわけで、飼育をした女性は泣いたようです。
生活をともにした大切な存在から、自分たちが生きていく上で必要なものをいただくわけです。
肉と皮にする前には、丁重な儀式を執り行います。
実に様々な儀式を重ね、クマから命をいただいて生きていたというわけです。
儀式はたいていみんなが見ている前で行われます。
何か大切なことをいただく、ということを共有するのです。


【アイヌからSDG‘sを考える】

反面、ぼくたちが食べるもの、着るもの、生活に必要なものは、どこか遠くの世界からきています
知らない人が作った服を着ています。
知らない人が殺した動物の肉を食べています。
こんな私たちが、アイヌのことをとやかく言うことはできないのだと思います。
全く違う生き方をしているから、相手の文化を否定することはできません。
大切な存在から、自分たちが生きていくうえで必要なものをいただく生活を、心から理解できないからです。
部分的に考えると、釣りが似ているのでしょうか?
釣り人は実に大事に自分たちが釣った魚を食べますね。
近所の人に分けたり、包丁さばきをyou-tubeみながら練習したりします。
僕自身、やはり自分が命を奪った魚には、心を尽くして料理しました。
今は教科書からなくなってしまったのですが、理科の解剖もそうです。
子どもたちは自分達の勉強のために、生きている魚を殺すのは「かわいそう」と言って、反対しました。
しかし、我々がいかに生き物の犠牲の上で生きているかを説明し、わかってもらいました。
解剖の学習には、全員が真剣に取り組みました。
子どもたちは魚を裏山に埋め、墓を作りました。
自分達の大切な勉強のために、命をいただいたことに感謝していたのだと思います。
大賀さんの勉強会でもあったように、実は持続可能な社会のために、気づかないうちにやっていることってあるのだと思います。
こうしたことを切り取るためにも、アイヌの文化を学ぶことは大切だと感じました。

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