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【人生】父が亡くなり1年と1ヶ月(前夜)

あまりにもあんまりな忙しい時期がやっと終わった。だいたい命日である6/20~今頃の7/20前後までは、私の1年のなかで最も忙しい時期に入る。

(本当にバカな時期に展示をした)

中でも7月に入ってから半月ほどはハードで7/6辺りからはもう、寝れて四時間、だいたい二時間の睡眠が10日ちょい程つづくため、noteの更新ができない。

毎年7月は20日頃にやっと落ち着く。

父が亡くなり1ヶ月とたたないうちに昨年はその時期を迎え、悲しみと混乱と疲労が物凄かった。

今年は父のお墓参りにいきたいが、熊が出て墓場が封鎖したりでなかなか行けずじまいだ。

時間が本当に解決なんてしてくれるのか?と思われた悲しみは、何となく、本当に薄れてきた。

薄れたというよりよくも悪くも忙しすぎる。
父の計らいかもしれない。
メソメソしてないで働けと。

悲しいし、受け入れがたい気持ちと、
事実としてもういないのだなという諦めと。

頭がやっと理解して、心の方に説明している。
それで仕方がないんだと悲しみながら受け入れてる過程だ。

落ち着いてしまうことは、それはそれで寂しい。

しかし、今こうやって私が生きているのはやはり産み育ててくれて、育まれた事実があるからだということを感じる。より重く感じる。私だけの命ではない。命を継いで来たものすべての命なのだ。

悲しみの殻の中に柔らかい思い出がサナギのように眠っている。

形のないドロッとした、きっと優しい思い出が。思い出したときに色彩が甦っていく美しい想い出が。

こういう風に記事を書くと、やっぱり涙がこぼれるが、こうやって今は過去になっていくのだなあと思う。

こんな些細で大切な歴史を抱えながら人はすべからく想い出という存在に変わり、やがて消えていくのだろう。

境内の鳥居や狛犬には先日亡くなった、祭りを守りつづけたお爺さんの親の名前が刻まれている。
(本人の名前はどこにもない)

刻まれた名前の奥にも、やはりこのようなささやかな歴史が生きた分だけあったのだろう。

それを知る人はもう90歳を過ぎていて、
やがていなくなる。

寂しくもあり、それが生きるということなのかもしれない。

出来るだけ、記憶と記録に遺すのだ。
どうやって遺せるだろう。遺したものをその後の人も大切に遺してくれるだろうか。

悲しみは薄れるけれども思い出は出来るだけ忘れたくないので、覚えておきたいことは記録をしたり、人に話したりしようと思う。

この間、「水」の想い出のこと思い出した。

たまたま、SNSで流れてきた話が湧水の話で、
父との思い出が甦った。

私が小学生の頃、五年生くらいの頃だろうか。

父は湧水にこっていた。

「安心」などの健康雑誌の読者で、水のことやにんにくで健康!みたいなことにこり、何か臭くて不味い酒をつくってはよく飲んでいた。

朝5時に急に起こされて、片道2時間くらいかかるところまで、業者かよという量のタンクを持って湧水を汲みに付き合わされるのはだいたい長女の私だった。

母の新聞配達も手伝うこともあり、朝方に育ったのは両親のライフスタイルのお陰かもしれない。

湧水で有名な京極では、あまりにも占領して水を汲み、あわや喧嘩に…という場面も。

父親が知らないおっさんに胸ぐらつかまれていたのは、今思い出しても怖いけど、だいたいうちの父が悪い。

公共の場は、うちの水場ではない。

順番だから待てよという父、あまりにも多すぎて待てないだろうという量のボトルとタンク。
サファリの客席、トランクは全て焼酎のボトルと青と透明タンクで埋め尽くされた。そんな量だ。

どけるようにいわれるが無視をして汲んでいたら父は胸ぐらをつかまれていた。

私が退こうとしても、怒ってつづけるようにうほど頑なだった。言ってきた人が、嫌いなタイプの人間だったのだろう。確かに正しいが横柄で感じは悪かった。手が出るタイプだ。どっちもどっちだが、とりあえず占領はよくない。

他のお客さんにも話しかけられる。
「喫茶店でもやってるの?」
「湧水で風呂にでも入るの?」
などいろんなことを言われながら、
なんでだろうと思いながら水を汲むのに付き合わされていた。

汲んだ水は物置で保管され、父はそれで焼酎を割る。私はあんまり飲まない。

たまに置きすぎで藻が生えていて健康によいのか悪いのか謎なこともあった。

何だか変な思い出だ。
でも何だか父らしいエピソードだ。

帰りは大抵温泉に寄る。
楽しみのひとつだ。

父は嗜好品寄りではなく健康寄りでものを選んでいた(好物のラーメンは別)

まだ結婚もしてない若い頃大病をしてから、コレステロールや油に気を使い、運動を欠かさない真面目な人だった。

父はもともと剽軽だけど真面目な人だ。
真面目で勤勉で地頭がよい。
人のせいにするが根っこにはやはり家族を養い守る責任感があり、頑張っていたなと思う。

私たちは子供だったのでそんな健康志向なものより美味しいものを食べたかった。母だって美味しく残さず食べてくれるものをつくりたい。

それで、ご馳走が出る度に「ガンになって死ぬ」話をするため、場がしらける。誕生日もそんなことから喧嘩になり泣き叫んでおわる。

父は健康に長生きしたいし、してほしいから口うるさく言っていたことはわかる。子供ののぞむところではないが、これもまた愛の形だ。難しい。

父は制服も買えない上に兄弟が7人いて、子供の頃の食事は質素で、唐揚げやハンバーグなんて食べて育っていない。こんな不健康で贅沢な病気になるようなものを毎日食べさせる意味が分からなかったのだろう。

魚は骨まで食べないと不機嫌になるし、絶対にその圧力に屈せずマイペースな妹は好きでないものはしっかりのこすので、残り物の骨もバリバリ食べていた。

痩せほそって骨と皮になってしまった父は、焼かれた後、焼き場の人が思わず声をあげる程に骨が太かった。骨密度が高いというか、登山ゴルフをよくやり太陽に当たる人は骨が残ることが多いとか。
温度にもよるらしいが、父の生きざまが溢れ、骨壺におさまらなかった父の骨の入った骨壺の箱はとても重くて、骨まで父らしかった。

生暖かいので、抱き抱えた箱は、まるで体温があるみたいだった。

父とは何もかも話が通じ合わなかった。
譲歩をしないので、こちらが父に価値をあわせなければならない。

そのお陰で当たり前の基準がまわりとズレた。
よく見るテレビは時代劇。
(キムタク黄金期でロングバケーションとか流行ってたかな)
よく聴く歌は都はるみや千昌夫。唱歌。
(B'zやシャ乱Qが活躍してたかな)
知っている政治家は田中角栄と池田勇人だ。
(生まれたときは中曽根さん。高校の頃に小泉さんかな)

キムタクにいたってはしばらく流行りのアジア料理だと思っていたほどだ。

小学生や幼稚園児の私や妹側は、父の通ってきた人生がよく分からない。父が生きたのは戦争中。子供時代は戦後。
父の父は戦争で負傷し、障害がのこっていたようだ。祖父に関してはわたしは葬式の記憶しかない。
私たちはバブル、そしてその崩壊目前という時代の子供だ。どんなに追い付く努力をしたところで、

時代が違いすぎた。

母と意に添わぬ子供たちには当たりが厳しかったが、素の性格は、剽軽で真面目。そしてド天然だった。真剣にボケるので面白い。

養う責任と、あまり世渡りがうまくないのにやっていかねばならないストレスなどできっと辛いこともあったのだろうなと思う。

もっと笑って父と話してみたかった。

介護が必要になってすっかりおじいちゃんになった父も確かに父なのだが、どんな価値を持ちどんな経験をして生きてきたのか、夢はあったのか、若い父といろんな話をしてみたかった。

ひとつだけ、庭(これも凝っていた。凝り性だ)に露天風呂をつくりたいという夢だけはきいたことがある。ご近所から丸見えだから却下されたが、案外やりたいことやアイデアは溢れていたのかもしれない。

人から見たら下らないことでも、自分がどうしようもなくやりたい、好きなことを真剣にやる人間が私は一番好きだ。

沢山夢を叶えてほしかったが、父の夢とはなんだったんだろう。

なんて書きながら泣いてしまう程度には、
私にとって父は私の大事な人だ。

仲が悪いと思っていたけど、この間友達と話していて、そんなに思い出を語れるほど関係が良いのが羨ましいと言われて驚いた。

夜逃げ同然で出ていく程の関係性でしたが、
そうか、色々あったというだけでちゃんと親子していたのかな。

また、たまに父に、夢で会いたい。




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