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【読書】ちいさなちいさな王様

アクセル・ハッケ 作
ミヒャエル・ゾーヴァ絵
那須田淳/木本栄 共訳

講談社(1996)

ちいさなちいさな王様との出会いは、地元北広島の図書館。図書館には何をするともなく行き、本を読んだ。

発売からは28年前の本であるが、表紙は褪せても、中身が褪せることはない。

私が読んでいたのは、高校生または浪人、大学生の頃なので、20年前前後のことだ。

また読んでみたくなり注文し、ちょっと色褪せたこの本をPORTOの「わたしの本屋さん」のわたしの本棚「虹色書店」に置きにいこうと思ったわけだ。

定期的に読みたくなる本が何冊かあるのだが、
これはその中の一冊だ。

何も理由はないが、手にとって読んでしまう。

そしてくすぐったいような感情を新鮮に感じながらも実家のような安心感も同時に感じるという。

誰かと話を共有したい、誰かの好きになってほしい本だ。

理由はないけど、私の特別な本だからだ。

誰かの目にとまって欲しい。

哲学的なファンタジー
大人が読む童話とも言える。

「ある日、ふらりと
僕の部屋にあらわれた
僕の人差し指サイズの
気まぐれなちいさな王様。」

カバーにはそう書かれている。

サラリーマンの僕と、僕の部屋に現れたちいさな王様のお話だが、この会話がとても面白い。

王様はグミベアが好きなのだが、グミベアが身体の半分サイズだというのだから、とても小さい。

この王様がふんぞり返ったりするのが、可愛い。とても可愛い。

この作品は、ハッケが南ドイツ新聞に連載していたものをまとめ、クンストマン社から出版された。絵本になってからの挿絵がまたとてもよい。

目次をはさみ、私の好きな部分のネタバレをしていこうと思うので未読のでネタバレはしてほしくない方は、お戻りいただければ。

ネタバレなのだけれど独特の表現などは、
本でしか感じられないので、
まあ読んでもよいと思う。読んで、読みたくなってほしい。


1 大きくなると 小さくなる


王様の名前は十二月王二世。
僕の人差し指ほどの大きさの太った王様で、白いテンの皮で縁取りされた分厚い深紅のビロードのマントをいつも着ている。

大好物はグミベア。身体の半分ほどの大きさなので抱きついて頬張る(ワイルド!)

ヨギボーサイズのグミを齧るようなもんだろうか。好きだとしてもやはりワイルドだ。

王様の話では、我々の世界と王様の世界とは根本的にルールが違う。
「生まれたときは大きく、次第に小さくなっていく。お腹から生まれるわけではなく、不意にベッドで目覚めたようだ。(この時はどうやって子どもができるか忘れてしまっているが、後から思い出している)
人生というのはある日起き上がってはじまるらしい。大きいところからはじまり身体がどんどん縮んでいく。

生まれた時はほとんど何でも知っていて、起き上がったときから執務室にいて、いきなり微分積分も解ける。

しかしときがたち、小さくなるにつれて色んなことを忘れ、仕事をしなくてよくなり、他の人に任せて何して遊ぼうかと考えて過ごしたりする。
そして、小さいほど人生経験が豊かなので偉い。」

色んなことがわからなくなるのはまるで老化のようで、認知症を彷彿とさせたが、

「おれたちにはこれから楽しみに出来るものが待っているのだからな。ワクワクするではないか!」という。

少し、何だか、うるっとした。

人生の最後の最後に、楽しみだ、最高だ!ワクワクするとまっすぐ言えることにだ。

老後に「あー、消防士になりたいなあ」と子供のような目で言えたら、どんなに素敵だろう。

私は何になりたいかなあ。
旅する絵描き、かなあ。
ペンギンかなあ。

2 眠っているときに 起きている


ある日の僕は機嫌がよくなくて、王様に話しかけられても歯切れの悪い答えをしてから「寝るよ」とだけ言った。

王様はとてもとても小さいのだが、「我が家へ遊びにきたらどうだ」と言う。本棚の後ろのちいさな隙間にすんでいるのに。

どう考えても入れないとおもった僕だが、

王様にいわれた通り、腹這いになり、両方の人差し指をひび割れの間に入れて身体を引き寄せると、ホコリが巨大化し…自分が小さくなっていた。

家は100歳で(家の年齢の数えかたが新鮮!)家も年をとると縮むらしい。50年前は8倍あったようだ。

小さい部屋には箱があり、箱のなかには「夜に見る夢」が入っている。それらは何が入ってるかわからないが棚から箱をひとつ取り出して夢を見るのだと言う。朝になるとその夢をちゃんと箱に夢をもどすのだ。


僕が見たシュールな夢。湖にボート漕ぐのだけれど窓からその自分を合わせ鏡のように見る無限のような世界。

ありそうな夢の話をすると、

変な声をあげて、「そんな夢にはよほど大きな箱がいるぞ!」と興奮する王様なまら可愛い…。

夢はおじいさんから「相続」したのだそうだ。
なんて素敵な「相続」だろう。
人は小さくなるが箱の大きさは変わらない。おじいさんも部屋も小さくなりすぎて箱を保管できなくて、広かった王様の部屋に移したのだそうな。

経年で小さくなる家は不便だが大切なものが厳選されそうで理にはかなっているのかな。

僕の夢をもうひとつきいて、王様は「夢が現実で現実の方が夢なんだ」ということをおもいつく。

僕は、飛べない飛行機のパイロットの夢を見ていたのだが、そちらが現実で、くたびれたサラリーマンの方が夢だというふうにだ。

だとしたら私は卒業後15年も大学生をやっていたし卒業したのは去年だということになる(笑)
最近はドでかい神社に住んでいて入り口が二つあるためお客さんがどちらから来たか分からず廊下をダッシュしながら両方対応するがしきれないという夢だった。
狭いアパートに独り暮らししていたりもする。

忘れかけたころに同じ建物が出てくるので、本当にそちらにいくつか住まいがあるのかもしれない。

大学は道に迷うと病院と工事現場に出るし、
たまに60階くらいまであり(池袋サンシャインシティかな)星に手が届きそうな展望デッキまである。
フリーフォールかと思うような勢いで落下することもあり、怖すぎる。とんでもない施設なのでクレームを入れるべきだ。

しかし、その世界では若い祖父母や両親にも会える。よく笑っている、父と母に。

箱にのって空飛んだり、地上10cmを腹這いで飛んでいたり(歩いた方が視線が高い笑)

毎日が変化に富んでいてトンチンカンだ。

そんな現実も悪くない。

しんどい日もあるがそれが夢だと思えばなんのことはないかもしれない。

人生自体が夢みたいなものなのだから、真剣に自由に生きたらよいのだ。本当はね。

3 存在しないものが 存在する


この章の王様は、もう小指より少し大きいかくらいまで小さくなり、トーストされたパンで暖をとっていた。

ソーセージと間違われて食べられそうだ。

外へつれていけというやり取りが、面白い。

日曜日くらい寝かせてくれというごもっともなサラリーマン。
外に連れ出してくれないからと小さいおっさん(王様だけど)が、憂さ晴らしに朝のコーヒーにやたらと角砂糖を放りこんだりと駄々っ子みたいなことをしてくるのは大変鬱陶しいが(笑)

根負けして休日に外へ連れ出してくれる僕はいいやつかもしれない。

胸ポケットに王様を入れて、職場の近くまで散歩に出掛ける。

王様は、人に見つかるなよという忠告もきかず、すぐに顔を出してはすれ違う人の、嘘か本当かわからない支離滅裂で荒唐無稽なストーリーをもっともらしく語る。結構物騒な話も含めて。

そしてそこを曲がると竜がいるとかいう。

会社に行く気がない、気が重い等は全部竜の仕業だという(笑)会社に行こうとすると攻撃してくるのだそう。(今日は仕事をしに行くわけではないので攻撃しないとのこと。)

そして王様と喫茶店でお茶をする。
王様にはグミベアーはあるか?とお店の人に聞いて、自分はカプチーノを飲んだ。

会社や学校に行きたくないのは竜がいるから。

そういえば、全部妖怪のせいと言われていた時代を思い出した。

だとしたら布団の上には多分毎日ぬりかべがいると思う。
曜日関係なく毎日もう少し布団のなかにいたい。

4 命の終わりは 永遠のはじまり


ある日二人はベランダに寝転んで星を見ていた。
と言っても王様は僕の上に寝転んでいたのだが。

僕は星を見ると自分がちっぽけに感じるのだというが、王様は「自分が巨大になっていく」と感じている。

何につけても逆さまの考えだ。「ガスのように膨れて、宇宙の一部にしか過ぎない存在となり、無数の星さえもおれの中にある」と。

その後、想像ごっこなる遊びをするのたが、僕は逐一「答え」を聞きたがることに王様はぶちキレる(笑)

二人の会話がチグハグでおかしい。

永遠の命を手に入れたらと想像するというテーマなのだが、厚生年金の心配をする僕は流石にすごく現実的すぎる。ドイツの公的扶助はどうなってるんだろう。少し気になる。

忘れていた王様の世界の子どものつくりかたの話だが

王様と女王様が抱き合い
(ここで、なんだとガッカリする僕)
ベランダから飛び降りるのだそうだ
(!?)

地面についたら二人がまだちゃんと抱き合い目も閉じていたら、地面はトランポリンのように弾み、天まで飛び上がる。そしてそのとき二人は星をひとつとってきてベッドの中にいれておく。それが、朝目を覚ますと王様の一人となるというのだ。

荒唐無稽だが、これも私的には少しうるっときた。

愛の確かめ方が命がけてひとつの星を二人で選
ぶという美しさにだろうか。

それを二人でお布団に入れるのだ。
世界一幸せな王様になるように、と。

なんか、不意打ちでうるっときた。

5 忘れていても 覚えている

王様との日常を想像するだけでワクワクする。

子供の頃想像した生き物がいる世界、発売した頃ちょっと大人になっていたけど
「草むらからポケモンが出てくるのでは?」とおもっていたような世界に近い。

バーチャルリアリティーで、それに近い世界にはもうなっているが。

王様はチェスの駒と戦ったり、サッカーのボードゲームとサッカーしたりしている。

その後、鉛筆の芯のかけらと、紙の切れはしに絵を描いて、それを「絵持ち」に売りに行くのだという。グミベアーと変えてくれるのだそう。

僕が子どもの頃に集めていたミニカーのトラックにのせて。

僕も想像することで助手席に座れる。

絵持ちは部屋にいて出てこないのか呼んでも返事がない。王様は隙間に向かってあるいていく。

僕はそこで目が覚めて、足元にトラックのミニカーと暖炉のそばの幅木グミベアーが転がっていることに気がついて、物語は終わる。

終わるのが惜しい。

ずっと二人の話を聞いていたい。
そんなに気分になる。

同じ話なのだがそれで、また忘れかけたころにページを開きたくなるのだ。

素敵な表紙。偉そうな王様そのものだ。新聞に乗るため邪魔で見出しが数文字読めないらしい。愛おしい。

わたしの感想


10年くらい読んでいなかったと思うが、
内容は変わってなかった(当たり前)

だけれど、きっと反応するところは変わってきたとおもう。当時の感想もどっかに残せば良かったなあ。

老いや生死は、あの時は遠い出来事だった。

もっと、社会に出られるかとか、アイデンティティの悩みとかそんな事柄が重要で哲学しちゃう自分が好きだとかそんなイタイこだった。

今は、私自身は膝がよく笑うし疲れやすいし目が霞むが、まだ老いと生死のステージではない。

「親」の老いや生死が今、ダイレクトに辛いため、そこへの感想だとおもう。

「自分の」になる頃にはどうだろう。この本をまだくすぐったい気持ちで読めるだろうか。

永遠に小さくなり見えなくなるだけで何処かにいて消滅はしないかもしれないし、死後の世界は宇宙そのものだから星さえも自分のもの、なんていうことを夢見て生涯を終えられたら、素敵だ。

親たちもきっと大変な老後だ(った)と思う。
せめて幸せな瞬間がいくつもあるようにと願うばかりだ。出来ることはなんでもできるかぎりはやろうと思うが、

私にも訪れるだろう最期にはありがとうの気持ちと、無垢な夢をまだ沢山見て、想像の世界を楽しめたらいいなとおもう。

人が幸せな姿は何せ自分も幸せな気持ちにさせてくれる。

私は素敵なおばあちゃんになりたいなあと、この本を読んでいたころに思っていた。

まだ10代か、20代なりたてのころだ。

今は、ちょっとしんどいおばさんかもしんない。
でも、
素敵なばあちゃんになる夢はまだ捨ててない。
にこにこして楽しそうでなにか素敵な婆さんになりたい。

婆さんになった私は、この本をまだ好きでいるだろうか。

あの頃の私に「どうよ」と誇れる婆さんになれるだろうか。

健康に歳をとるのも、歪まず素敵な自分でいることもゆるいことではない。

無邪気にグミベアーに抱きつきかぶりつく偉そうなちいさな王様を部屋の隅に想像すると、やはり、くすぐったいような気持ちになり笑みがこぼれる。そこだけは、当時と変わらない。

何の縛りもない、無知の子供が喋り始めた頃に、集めた少ない知識と語彙力で紡ぐ世界が妙に説得力を持つこともあり、すごく面白いアイデアなこともある。

羨ましいほどユニークな発想は知識と引き換えに何処かにいってしまうのが惜しいが、やはり大人には教養があってほしいし、教養があるからこそのウィットの富んだ笑いを共有したいこともある。

どちらも残してすてきな大人になれたらいいなとおもう。

久々に読んだ本を皆にも読んでほしくて、本棚の高いところに置いてみたけれど、手にとってもらえるかな。

手にとって、あわよくば読んでほしいなあとワクワクしながら、PORTOを後にして、ジンギスカンの具材を買いに出掛けた火曜日だった。


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