風呂場譚

お風呂が好きだ。フィンランドに来てからも毎日のようにお風呂に入っている。もちろん日本家屋に備え付けられている多くの風呂場のように浴室と浴槽が一体化している訳ではないが、それでもしっかりしたバスタブが家にあることを多くの在欧邦人が羨むことだろう。フィンランドはサウナ大国、部屋にサウナはあれどバスタブが備え付けられていることはなかなかない。バスタブを置くスペースがない場合も多い。

バスタブを自ら購入した訳ではない。私の住んでいるアパートは今は亡き夫の祖父が住んでいたアパートなのだが、その夫の祖父という人がフィンランド人にしては珍しいお風呂好きだったということで、その恩恵にあずかっている訳だ。とはいえまさかそのおじいさんも毎日お風呂に入っていたわけはないと思う。バスタブの身になって考えてみると、急に新たな持ち主が現れ、毎日毎日飽きもせず湯を張られるのだからさぞ驚いたことだろう。

ボタンを押すだけで適温のお湯が張られ、はいどうぞお入りなさいと湯気をもうもうと立ち上げて待っている風呂ではない。鉄製の白い浴槽にはところどころに錆が見られ、一丁のお豆腐のように浴室の壁沿いに粛として佇んでいる。フィンランドの蛇口の多くは右に捻れば氷のように冷たい水、左に捻ればやけど寸前のお湯が出るので、シャワーのお湯を手に当てながら適温を探る。大抵それは垂直から左に15度前後で、これでいこうと決めたらシャワーを浴槽に差し入れる。冷たすぎたり暑すぎたりしたら、その都度氷のような冷水かやけど寸前の熱湯で調整する。

ほう、と息をもらしながら湯船につかる瞬間。至福のとき。細かな泡粒で白くなった肌の表面を指でなぞりながらその日一日を回想する。今日の私はどうだったか、と振り返ると大抵理想とは程遠く、ああすればよかったこうすればよかったと惟る時間が始まる。一人反省会だ。そろそろせねばと思っていた洗濯を今日もしなかった。料理らしい料理もしなかった。子どもと充分関わっただろうか。いや、過不足ないお世話程度だったな。夫に言ったあの一言、なんであんなにきつい言い方をしたのだろう。やらねばならないタスクの進捗はひどいものだ。食後にダラダラとネットサーフィンをしてしまったあの時間にもっと進めればよかった。買ったさつまいもは三日間キッチンの片隅に転がっている。あ、冷蔵庫のトマトの和え物、もう悪くなってしまっていたから捨てなくちゃ。

汗が頭皮を気持ち悪く湿らせ始める。今日も私は不完全で、ドロドロで、一日という貴重な時間を使い切らずに過ごしてしまった。ああ、なんだかな。そんなことを考えながらも温かい湯に身を包まれると幸福感が勝るのだから、私は単純である。

お風呂で思索する癖があるのは私に限らないだろう。狭い浴槽は多くの小説で主人公が思い悩む場として登場する。フィンランド人はどうなのだろう。シャワーを浴びながら物事を憂うのだろうか。水しぶきを顔で受けてああでもないこうでもないと考えるのだろうか。

サウナはどうだろう。サウナは反省会より創造に向いていそうな気がする。柄杓で水を熱々の石に放り投げ、息苦しい熱から顔を守りながら考えることは、過去の淀みより未来の展望が似合う。

行動はもとより思考さえも場に支配されていると感じることは多い。パソコンの前に座るとたとえパソコンをつけていなくても仕事のあれこれに脳を支配されるから、休憩時間は必ず机を離れる。部屋の角に位置する肘掛椅子に座ると無条件にkindleを開いてしまうし、キッチンではなぜだか季節や時間の移ろいに思いを巡らすことが多い。そんな私のアパートで、自省の場の役割を一手に引き受けてくれる風呂場が頼もしい。私がかろうじて人間の形を保っていられるのは風呂のおかげといっても差し支えない。

そんなことを考えるくせに、それが次の日に生かせるかと言うと、答えは明確にNoなのであるから厄介だ。浴槽から出て汗をシャワーで流すのと同時に記憶まで洗い流してしまうようだ。ああ気持ちよかったと風呂場から出ていく私の後ろで、洗濯、仕事、その他諸々の「しなかったなあ」が排水溝に吸い込まれていってしまう。件のトマトの和え物はその後丸一日冷蔵庫に鎮座した後、何か食べるものはないかと再び覗き込まれ、やっと捨てられるに至った。風呂場に愛想をつかされないように願うばかりだ。

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