オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その101

再燃


 
翌日曜日、現地時間の朝、北京の中南海にある習近平主席の公邸の電話が鳴った。盗聴を防ぐ為に幾重にも保護された中枢部専用の内線電話だ。
 
「お早うございます。主席、日曜の朝に大変申し訳ございませんが、悪い報せをお伝えしなければなりません」
 腹心の劉正副主席だ。
 
「何事か?」
 主席の声は明らかに不機嫌になっていた。
 
「吉林省白山市内でクラスターが発生いたしました。感染者は二十人程で、うち十二人は親族、他の人間も濃厚接触した者でございます。ウイルスは解析中で、ADE株がまたも飛び火した可能性を否定できません。感染者及び濃淡に拘わらず接触者は既に全員隔離し、治療薬の投与を始めております」
 
「…それから?」
 声音は冷酷そのものに変わった。
 
「白山市及び隣接する地域は既に完全封鎖して、全員検査を実施すべく作業を始めました。遺伝情報解析と感染ルートの洗い出しも始めました。どうやら市内の食堂で数日前に親族が規則に反して大人数で集まり会食したのがクラスターに繋がったようです。更に、念の為、吉林省と遼寧省全体に対し域外との交流禁止を通達致しました」
 
「それで大丈夫か?もっと封鎖を広げる必要は無いか?」
 
「患者と接触者の隔離と治療、白山市及び隣接地区の完全封鎖と検査を徹底するのが第一と趙龍雲も申しております。仮に不幸にしてADE株だったとしても、これまでの経験から治療薬が効くことは分かっておりますし、感染力はそれ程強くないので最初から手を拡げなくとも大丈夫だろうとも申しております」
 
 趙龍雲は防疫・公衆衛生問題を統括する国家衛生健康委員会を担当する国務委員だ。
 
「解析結果はいつ頃出る?」
「半日後には暫定結果が分かると聞いております」
「ADE株だった場合の対策を急ぎ策定してくれ」
「畏まりました」
 
 北朝鮮国内のADE株封じ込めは基本的に成功したと評価されている。それなのに今度また中国側で再燃したとあれば「一体、何をやっていたのか」と内外で批判を浴びるのは必至だ。
 
「さて、どうしてくれようか…」
 
 劉正副主席が言ったように、感染者と接触者を隔離して治療薬を投与し、一帯の完全封鎖をすればADE株の封じ込めが可能なのはもう分かっている。
 
 問題は国内の非主流派からの批判であった。当初のゼロ・コロナ政策とその後の長い経済不調のせいで、国民の不満も鬱積している。こちらを封じ込めるにはどうすれば良いか…習主席は思案を続けた。
 
 中国は北朝鮮での封じ込めに多大な貢献をしている功労者であり、中国国内の飛び火に関しては、あくまでもとばっちりを受けた被害者であるという立場をまず維持する必要がある。被害が世界に拡散するのを防げなかった失策国家という烙印を押されるような失敗は繰り返してはならない。それが第一だ。
 
 アメリカの新聞に載ったように、これがノーベル平和賞に繋がれば国内の批判は収まる。しかし、昨今の台湾や南シナ海等を巡る米中対立を何とか緩和しない限り夢物語なのは分かっている。勿論、万が一、ADE株が拡散すればお話にならない。
 
「北朝鮮で始まった問題は北朝鮮を使ってうやむやにしてしまうのが良いか…」
 
 パリに向かった病人と凍結宣言後の最新状況を確認する為、習主席は対外連絡部の郭燿部長を呼び出すことにした。
 
 上手く行かなくとも損はない筈だった。
 

警護車両

 
 
 現地時間日曜の朝十時、菜々子と山瀬はホテルのロビーで落ち合い、タクシーで大友が入院している病院に向かった。
 
 受付で面会の手続きを済ませ、病室に到着すると大友は既に平服に着替えていた。妻女と愛娘もいる。
 
 娘は父親にべったりとくっ付いていた。
 
「お疲れ様。大変だったでしょうけれど、思ったより元気そうね。無事でほんと良かったわ。具合はどうですか?」
 菜々子が見舞うと大友は「もう大丈夫です。有難うございます。御心配をお掛けして申し訳ありません」と神妙だった。空腹のせいもあるのだろうが、元気もない。
「謝ることはないです。無事で良かったんだから。しっかり養生して、早くご家族が安心できるようになってください」
「はい」
 
「奥様、本当に御心配だったでしょう。仕事中に倒れてしまって、私達も責任を感じています。もう少し休みが取れるようにするべきだったと反省しています」
「有難うございます。でも、元はと言えば、この人が食欲を全くコントロールできないのがいけないんです。それは私も分かっています。煩く言っていたんですが、外では随分食べていたんでしょうね。部長からも厳しく指導してくださいますと助かります」
 妻女は大友を気丈に睨みながらそう応えた。
「分かりました。その点は私達も厳しく指導します。お約束します」
「宜しくお願い致します」
 
 妻女はそう言うと娘を連れて部屋の外に出た。
 
「あの、部長…、僕が倒れた直前の事なんですけれど…」
 すると大友はあの時の状況を自ら説明し始めた。
「DGSEが向こうからわざわざ出て来てくれたんで、僕は絶好のチャンスと思いまして、張ったりと言うか、一発カマしてみたんです。患者のプライバシーの侵害だの何だのと五月蠅いので、貴方達はカン・チョルさんの護衛をしているんですか?とね…」
 菜々子と山瀬は黙って頷く。
「そしたら激高し始めたので、もの凄くビビったんですが、僕は追い打ちを掛けようとしたんです。『カン・チョルと言えば北朝鮮のキム・ジョンチョルさんの偽名ではないですか?』とね。
 でも、僕がそう言い終わる前、キム・ジョンまで言ったところで大噴火しましてね。『ふざけるな!彼はジョンウンでもジョンチョルでもない。ただのカン・チョルだ!』って吠えたんです。私はジョンウンとは言っていなかったし、言うつもりも無かったんですけれど、向こうの方からジョンウンと言ったんで驚きまして…大当たりだと思った瞬間に脳味噌がピヨピヨし始めて…その後のことはもう全く覚えていません。正気に戻ったら、ベッドの上でした…」
 
「ほぇー」
 山瀬が感嘆の声を上げた。
 
「そうなのね…大変な目に遭ったけど、貴方、良くやったわ…凄いじゃないの」
 菜々子も褒め称えた。
 
「当たりですよね」
 山瀬が言った。
「そうね。もう、そう思って間違いないわ…」
 菜々子も同意した。
「出せます…?」
 大友が不安げに尋ねた。
「あなたの報告でもう一つ分かったことがあると思うの…」
 菜々子が言った。
「何でしょう?」
 山瀬が尋ねた。
「それは、彼らが患者はカン・チョルという名前の北朝鮮国民の一人に過ぎないで押し通すつもりだっていうことよ。あの場で先方もそう言ったのでしょう?」
 菜々子が指摘した。
「それはその通りです」
 大友も認めた。
「そうされたら反論出来るだけの証拠は無いわ。北朝鮮政府が認めれば別でしょうけれど、認める筈も無いし…」
「うーん」
 山瀬が唸る。
「何といっても金正恩総書記は公式には平壌で健在なんだから、否定されたら、それを突き崩す材料を私達はまだ持ち合わせていないのよ。それは変わりないわ」
 菜々子はきっぱりと断言した。
 
「あの、総書記か正哲かのどちらかがパリで手術を受けた模様という形なら出せるんじゃないですか?」
 山瀬が食い下がった。
 
「それだと報じる価値は半分以下になるわ。それにフランスと北朝鮮が口裏合わせて、実は正哲でしたっていう情報を裏で流されたら、それで決まりになっちゃうわね。韓国やアメリカが総書記だって筋情報でも流してくれたら別だけれど、今の流れだと当てに出来ないわね。リスクの方が大きいと思うわ…残念だけれどね」
 
「そうですか…やっぱり…」
 大友が大きな溜息を突いた。
 
「でも、貴方達の努力は決して無駄にはしないわ。いつか日の目を見る時が来るわよ、きっと」
 菜々子はそう言って大友を励ました。
「だから、当分は静養に専念して頂戴。ダイエットも忘れずにね」
 
 言われて大友はまた大きな溜息を突いた…。
 
「ゆっくり休んで下さいね」
 
 足取りはまだおぼつかなかったが、退院した大友が家族と共にタクシーに乗り込んで帰宅するのを見送ると菜々子と山瀬は徒歩で病院を出た。大周りになるが、大友が入院していたサン・シモン総合病に程近いパリ・セーヌ南総合病院の様子を見に行くことにしたのだ。
 
 パリは好天に恵まれていた。春の日差しに誘われて、多くのパリジャンが散策や日光浴を楽しんでいる。
 
 二人がパリ・セーヌ南総合病院の外科病棟前を通り掛かると山瀬が言った。
 
「居なくなってますね、警護車両が…」
 山瀬が指摘した。
「そう…やっぱり移動したのね」
「そうだと思います」
「パリの取材はこれで一旦終了ね。もう追っても捉まらないでしょうしね。でも、ジュネーブのカバーもあるから、山瀬さん、もう少しパリ支局をお願いしますね」
「了解しました」
「あなたも午後はゆっくりしてください。明日からまたよろしく。私は報告を纏めたりして過ごすから」
「食事はどうされますか?」
 山瀬が気を使ってそう訊ねると菜々子は言った。
「それは各自にしましょう。今日は日曜日だしね」
「分かりました」
 
 二人はホテルに帰着するとそれぞれ自室に戻った。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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