オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その119
専用応接室
翌木曜日の朝、菜々子は前夜のオーフ・ザ・レコードでの会話を反芻しながら本社に向かった。
「もうこんな状況になったらジタバタしても始まらない。明日ご機嫌伺いに行って、かつて生命の危機にあったという情報があるのだが、確証はない。もう大丈夫らしいし、詳しいことまで掴み切れないので、焦って放送するつもりはないといった程度までは説明するしかない。
それで通るかどうかは分からないが、大事なのは、代表ならどうなさいますか?とまるで指示というかアドヴァイスを仰ぐような態度に徹することだ。まあ、世の中の爺さん全般に言えることだが、そうやってご意見を拝聴いたしますという態度で接すると機嫌は良くなるもんだ。爺の俺が言うんだから間違いないぞ。
どうせ今年か来年には異動だろ?上手くすればニューヨークに飛ばして貰えるかも知れん。そう考えて、我慢することさ」
代表から見れば小僧だが、とうに爺様の仲間入りをしているルークはこう言ったのだ。しかし、ルークが示唆するような説明だけだと、この話になぜ中国政府の面子が絡んでくるのかという疑問がなお残る。もう一捻り必要だと菜々子は考えていた。
デスクに到着すると菜々子は会社では一年後輩に当たる北山に直ぐに電話を入れた。面会は11時に設定された。
その旨の連絡を北山から受けた矢吹もまた前夜のルークの言葉を思い出していた。
「俺もさあ…あの時、ご相談とやらに上がっていれば、その後のサリーマン人生は違ったかもしれないと思ったことが何回かある。
まあ、有態に言えば、最後は覚悟の上でケツを捲ったんだから仕方ないが、我慢して上手くやれば、もしかしたら、加藤のような輩が報道局長になることは無かったかも知れん。この点だけは少し後悔しているんだ。矢吹なら分かるだろう?ま、俺にはどうせ無理だったんだがね…」
そう、先輩はサラリーマンとしては我慢が全く足りなかったのだ。加えて、その言動は余りにも直截的過ぎたのだ。ケツを捲るのなら何時でも出来る。先輩が言うように、もう暫く上手く立ち回るべきだと矢吹は思っていた。
報道局では朝の編集会議が続いていた。
「で、先の見通しはどうなんですか?国際取材部も楽観しているのですか?」
編集長の坂口淳が国際取材部の当番デスクを問い詰めている。
「いやー、今は本気だとアメリカ政府担当者が言っている以上、直ぐにポシャる可能性は低いと思いますが、最終的にどこまで進むかは金正恩総書記の胸の内一つに掛かっていると思いますよ…」
そんなことを問われても分かる筈もない。編集サイドは兎も角、先の見通しを聞きたがる。困った性であった。常にライバルを出し抜くことばかり考えているからなのだが、報道は八卦の予想をする仕事ではないのだ。
菜々子は編集会議を聴き終え、決裁書類にサインを済ませると二十階にある役員室に向かった。
代表のメトロポリタン放送に於ける公式の立場は、既に取締役も退き、最高という言葉こそ付いているが顧問であるに過ぎない。しかし、別の場所にある顧問室には引っ越さず、役員専用フロアーで、かつて会長・CEOであった時からずっと同じ執務室と隣接する専用応接室、執務室の奥にあるトイレ付きの書斎を占有していた。
代表の小僧上がりの現会長・CEOが使っているのは同じ広さの執務室だけだ。これだけでもその専横ぶりと周りの気の遣いようが分かる。
菜々子は専用応接室に案内された。
「代表の御到着が少し遅れました。暫くお待ちください」
そう言って北山は応接室を出て行った。
「やあ、、、」
10分程経つと代表が執務室との連絡ドアを開けて応接室に入ってきた。上機嫌のようだ。
「お早うございます。お忙しい中、御時間を頂き有難うございます」
菜々子がにこやかに挨拶した。
「お早う。わざわざお忙しい国際部長さんに御出で頂きまして、こちらこそ恐縮ですな」
代表は立ち上がった菜々子に着席するよう手で合図した。
「で、今日は?」
代表が早速尋ねた。
「あの、先日は北京までご足労頂きまして大変有難うございました。あの時は、誰に聞かれるか、場所柄、全く油断出来ませんでしたので詳しく申し上げられませんでしたので、今日は補足でご説明させて頂こうと参りました」
「そうですか…ネタの中身についてですか?」
「はい、あの時は金一族の動静に係わる取材としか申し上げられませんでしたが、実は、金正恩総書記の健康問題が悪化して、現在もそうなのか一時的だったのか分かりませんが、命に関わる状態だったという未確認情報がございます。
大変恐縮ながら、この場限りにさせて頂きたいのですが、父親の故金正日総書記と同じ脳のトラブルなのか、それとも他の病気なのか、今も取材は継続しております」
菜々子は一部を伏せながらも、ネタの中身の説明を始めた。
「成程…もしも、そうだとすると、中国政府始め、各国政府が気にするのは当然だろうと
思いますね。が、それでも何で第三国の話を王鶴さんはあそこまで気にして、介入しようとしてくるんですかね?」
代表がやはり尋ねた。彼は齢九十を過ぎた今も思考回路は非常にしっかりしているのだ。
「そうなんです。それは私も全く解せないのです。王鶴さんがこのネタをそんなに気にしているのだとすれば、我々の取材が当たらずとも遠からずの線を行っているという証でもあると、私はむしろ心強く感じたのですが、でも、それが何でそこまで中国政府に関わってくるのか…」
菜々子は続けた。
「父親の正日総書記がフランスの医師の診療を受けたのは間違いないと見られていますので、今回も外国の医師の助けを借りているとすれば、やはり、一族に多少の土地勘のある
フランスかドイツの医師ではないかと思いまして、今は、そちらの方面に手を拡げて取材もしています。過去の例から見ましても、中国の助けを求めた可能性は極めて低いと考えているのです…」
「そうですか…」
「王鶴さんの力の入れように触れられて、代表はどうお感じになられましたか?
こういった点に関しては、私達より代表の方が良くお分かりになる面もあるかと存じますが…」
誘い水だ。
「そうですか…でも、どうですか?中国政府が総書記の健康悪化に対して医師団も派遣して助けているとしたら、王鶴さんがあそこまで真剣になる理由として筋が通りませんか?封じ込め作戦もあるのですから、この際、とことん助けようとしている可能性は考えられませんか?」
「確かに…おっしゃる通り、その可能性はあるかもしれません…そして、そんな話が表に出たら信頼関係に確実にヒビが入ります」
「そうです。独裁国家のトップに生命に関わる病気があるとしたら、それは秘中の秘、まさにトップ・シークレットです。そして、そんな情報が外に漏れたら、治療に関わっている人間や医師団の派遣元は間違いなく漏洩を疑われます。
今のところ封じ込め作戦は上手く行っているようですし、仮に治療も行っているとしたら、情報統制に一層力を入れても不思議ではないと思います。中国側の沽券にもかかわるからです。そう考えると納得できませんか?」
「ご助言、有難うございます。我々の取材も軌道修正が必要かもしれません」
代表は頷いた。
「あの…、我々としては、その可能性も選択肢に加えて、ヨーロッパ方面と共に、取材を続けても宜しいでしょうか?」
菜々子は念押しした。
「それはそうですね。取材を続けるのは構いません。ただし、当然ながら確証を得る前の報道は駄目ですし、たとえ確証を得ても、秋の党大会が終わって、その健康問題も含めて、状況が落ち着くまでは放送は絶対に控えてください。これはしっかり守ってください」
「はい、承知致しました。有難うございます」
取材を続けて良いという言質は取った。菜々子は緊張した表情こそ変えなかったが、心の中で快哉を叫んでいた。
「ところで、加藤局長はこの話を知っていますか?」
「いえ、ほとんど…」
「報告をしない理由は何ですか?」
「編集サイドに漏れますと、取材はまだ終わらないのか、いつ放送できるんだとやいのやいの言われますので…加えれば彼らも独自取材を展開しようと妙な動きをする可能性がありまして、非常に心配になりますので…」
「成程、それは危ういかも知れませんね。この手の話は知る人間の数を極力絞る必要がありますね」
代表は菜々子の説明に納得したようだった。
「パリの大友君が倒れたのと、この取材は関係があるのですか?」
代表が再び厳しい表情に戻って尋ねた。
「大友がこの取材にも携わっていたのは事実です。ただ、お医者様は、根本原因は食べすぎ、太り過ぎだと断言しておられます」
「それは聞きました。どちらも太り過ぎということですね?」
「おっしゃる通りかもしれません」
代表は一瞬にやりと笑い、続けた。
「ただし、社員の身体は会社にとって、親御さんからの大切な預かりものです。大事にするのを忘れないで下さい」
「畏まりました。申し訳ございません」
これには菜々子もグーの音も出ない。深く頭を垂れた。
「話は変わりますが、菜々子さん、何か良い話があるのですか?噂があるようですが…」
菜々子の様子をじっと観察した代表は、今度はぐっとくだけた様子で笑いながら尋ねた。呼び方も変わった。
「あ、あの噂ですか…、あの…、親しくさせていただいている方はおります」
菜々子は少しはにかんで応えた。
「外務省の方らしいですね?」
「はい」
「それは良い話ですね。色々言われているようですから間違いのないようにお願いしますね」
「はい、承知致しました。気を付けます」
明らかにプライバシーに関わる話だが、代表は幹部社員の動静は逐一知りたがる。ここで惚けるのはマイナスにしかならない。
「菜々子さん、時々、立ち寄って報告してください。宜しく頼みますよ」
最後の一言は代表の常套句と聞かされたことがあった。これを真に受けるべきか惑ったが、今、考えても意味は無い。にこやかにそうする旨応えると菜々子は部屋を後にした。
矢吹は北山から報告を受けた。
「面談が終わりました。代表はご機嫌です。立ち会った訳ではありませんが、上手く行ったように思われます」
矢吹は再び先輩の言葉を思い出した。
「あの爺様は猜疑心と嫉妬心の塊みたいな人間だ。もう無事では済まない可能性が高いが、美人で魅力的な女盛りの菜々子が手を擂り擂りしながらご意見伺いに上がれば、そんなに酷い目には遭わないだろうよ。残念だよな…一生懸命仕事をしているだけなのに…」
前夜、菜々子が手洗いに立った隙にルークはこう言ったのだ。矢吹は安堵すると共に、こう思っていた。
「そこまで分かっていながら、先輩は何で上手くやろうとしなかったんだ?その癖、俺にはそうしろって…勝手なもんだよな…」
その夜、菜々子は仕事上の会食の前にオーフ・ザ・レコードに立ち寄り、生ビールを一杯飲みながら、昼間の面談の概要を伝えた。
「そうか、取材継続の許しまで取れたっつうことか…。まだ安心は出来ないが、上手く行ったようで何よりだ。だが、次に加藤からハレーションが来るかもしれない。大したことにはならないようにも思うが、一応、気を付けた方が良いかもね」
ルークは報道局長の名を挙げて注意を喚起し、続けた。
「それともう一つ、絶対に注意した方が良いことがある。矢吹にも伝えるが、私と接触していることが万が一にもバレないように。これは大事だぞ」
確かにその通りかもしれなかった。ルークはOBとはいえ、もう外部の人間なのだ。それに代表や加藤にとって、もしも思い出せばだが、面白くない筈の存在だった。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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