オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その100

怪文書
 
「外務省の現職課長とキー局報道局部長の親密な関係に周辺は情報漏洩を危惧」
 
 それは日本時間土曜日の深夜、菜々子のパリ到着前にネットの某掲示板に載った。短い本文は次のようなものだった。
 
「外務省北米局の男性現職課長と某キー局の女性国際報道部長が親密な関係にあるという。二人とも独身の身なので不適切な関係とは言えないが、職業柄、外交関係の情報漏洩の恐れが無いとは言えないと外務省周辺は危惧している。
 また、女性国際部長の部下二人が最近相次いで倒れたという情報もある。酷使が原因との指摘もあり、これを問題視する向きもある。 いずれにせよ、今後の展開に注目である」
 
 現代の怪文書とも言うべきネット情報だったが、掲載が土曜の夜ということもあり、これがすぐに問題になる気配は無かった。しかし、いずれ関係者の耳目を集める可能性はあった。
 
 そんなことなど露知らず、現地時間の夕刻、パリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立った菜々子は入国手続きを済ませると市内のオフィスにタクシーで向かった。
 
「お疲れ様です」
「お久しぶりです」
 
 菜々子がシャンゼリゼ大通りに面したビルにある支局に一時間程で到着すると、支局で待っていた山瀬とベルナールが挨拶した。
 
「お疲れ様です、色々大変だったでしょうけれど、助かって本当に良かったわ。彼は今どんな様子なのかしら?」
 
 菜々子は挨拶も程ほどに最新の状況を尋ねた。
 
「今は大人しくベッドに寝ている筈です。空腹に苦しんでいるかもしれませんが、もう大丈夫だと医師は言っていましたので、そうなんだろうと思います。万が一、何かあれば連絡は来ます」
 
 山瀬が報告した。
 
「そう、一安心ね。ベルナールさん、こんな時間に申し訳ないけれど、当日の様子を詳しく聞かせてくれますか?」
 
 菜々子がそう頼むとベルナールは、屋根裏部屋に当局の人間が訪れて来たところから詳しく説明を始めた。
 
 ただ、大友が倒れた直前の会話はドイツ語だった為、ベルナールには金正恩総書記の名前が出てきたことなどは認識できたものの、詳しい内容は分からなかった。やはり、本人に訊くしかなかった。
 
「ベルナールさん、いろいろ有難うございました。貴方もお疲れでしょうから、明日は休んでいただいて、月曜日にまたお会いしましょう。出来れば当局の方とお目に掛りたいと思っていますが、それはまた明日考えます。病院へは山瀬と二人で行きます。お疲れ様でした」
 
「お疲れ様でした。何かあったら何時でも連絡を下さい」
 
 ベルナールがそう言うと三人はオフィスを閉め通りに出た。土曜日ということもあって、シャンゼリゼは混み合っていた。カフェやレストランはかなりの賑わいだ。
 
 そよそよと吹く風が菜々子の頬を優しく撫でるようだった。少し冷たかったが心地良い。
 
 ベルナールがメトロの駅に降りていくと菜々子と山瀬は宿に戻る途中の街のカフェに立ち寄った。時差の関係で菜々子に食欲は無かったが、摘みを少しとワインなら歓迎だった。山瀬は空腹のようだった。
 
「大友の回復を祈って…」
 
菜々子が白ワインのグラスを上げると、それに山瀬も合わせた。
 
パンとサラダ、リエットが運ばれてきた。
 
 これまでの大友ならペロリと平らげただろうが、二人でシェアしても菜々子には十分な量があった。
 
 サラダを取り分けると菜々子はリエットをパンに乗せて口に運ぶ。やや強めの塩味と豚の脂の甘みが口の中に拡がる。パリの料理のレベルがやはり高いのに菜々子は改めて感心した。
 
「旨いですね、これ。リエットというのは初めて食べました。パテなら何度も食べたことがありますが、これも良いですね、パンにはこっちの方が合うかもしれません」
 
 山瀬が顎をせわしなく動かしながら感心して言った。
 
「脂と塩分の塊に近いから身体に良いとは思えないけれど美味しいわよね」
 
 菜々子はそう言うとリエットをまたパンに乗せ、山瀬に任意同行を求められた原因を思い当たるか尋ねた。
 
 山瀬はリエットとパンを再び口に放り込むと言った。
 
「はっきりとは分かりませんが、あの日の前日の夕方、二度目の撮影に成功した時に向こうの警護の連中にも見られたんじゃないかと思います。張り込みを始めて大分経っていたんで我々も余り警戒はしませんでしたし、その時はもう周りが暗く、部屋の中の方が明るかったので、カメラに気付かれたんではないでしょうか…今にして思えばカーテンを閉めて隙間から撮るべきでした」
「そう…まあ起きてしまった事は仕方ないわね。ここまで来ただけでも立派なものよ」
「有難うございます」
 
「当日は何もなかったのね?」
「ええ、我々も短い素材を送って直ぐに撤収しましたので…向こうさんも正確な場所や我々の身元を割り出すのに多少時間が掛かったのだろうと思います」
「そうでしょうね。それで翌朝直ぐに来たという訳ね」
「そうだと思います」
「すると向こうも準備の時間があったことになるわね。きっと大友達を他の場所に留め置いている間に御本尊を移動させたんでしょう。そう思った方が良いわ。御本尊達に何て説明したかは分からないけれど…」
「あ、そういう事ですか…」
「多分…ね」
 
 山瀬も彼らがわざわざ大友達に任意同行を求めた本当の理由が腑に落ちた。日本のメディアと多少揉めても患者達を密かに移動させる事を優先したのだ。勿論、大友が倒れたのは計算外だったのだろうが…。
 
「さっき言いましたが、出来れば月曜か火曜日にでもあちらさんにご挨拶に伺いたいと思っているの。出来れば大友が倒れた部屋が良いわ。貴方も付いてきて頂戴。可能なら支局の顧問弁護士も一緒にね。アレンジは月曜にベルナールにお願いするつもりよ」
「分かりました」
「今後の事もあるから、やんわりと釘を刺せればと思っているの。これ以上、変な事にならないようにする為にもね」
「了解です」
 
 流石、部長だ…単にその地位に居るだけではない…と山瀬は感心したが、口には出さなかった。山瀬はサラダを頬張った。
 
 場合によってはルークのルートを使って水面下で先方に事実関係の照会をして貰う事も菜々子は視野に入れていた。何といってもこちらに非は無い。単に取材をしていただけなのだ。北京やモスクワでは難しいだろうが、ここはフランスだ。彼らも問題を大きくしたいとは考えていない筈だった。
 
 鴨の腿肉のコンフィが運ばれて来た。山瀬のメインだ。小ぶりな腿が二本にラタトゥーユがたっぷり添えてある。時差呆けの菜々子はメインを頼んでいない。代わりにワインをもう一杯頼み、サラダを口に入れた。
 
「明日は十時にホテル発で良いですか?タクシーに乗れば三十分も掛からないと思います」
 
 コンフィにナイフを入れながら山瀬が尋ねた。
 
「それで間に合うのならそうしましょう。余り負担は掛けたくないけれど、お見舞いがてら、大友じゃないと分からない話を訊かないと…」
 
 菜々子はそう言うと二杯目のワインで喉を潤した。
 
 山瀬がメインを食べ終わるのを待つ間、菜々子は大友の最近の食べっぷりなどを山瀬から聞いた。大食にも程がある…改めて菜々子は呆れる他なかった。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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