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20XX年のゴッチャ その56

 無症状感染者
 
「一回目の検査数は既に一千万件を超えました。総人口の三人に一人以上に対して最初の検査が終わっています。うち80パーセントは抗原検査で、残りはPCR検査です。
 そして、陽性は二千八百六十七件、陽性率0.03パーセント以下ということになります。感染爆発と言うには程遠いレベルです。このうちADE株の感染は千三百五十四件、残りは既存株です」
 
 現地月曜昼前、WHO調査団先遣隊のコールター博士は最新の状況を養鶏場跡地の臨時拠点に前日到着した本隊メンバーに説明し始めた。
 
「説明すべき順序は逆かもしれませんが、注目すべきは無症状感染者の数です。この先に光明が見えると言えるかもしれません。
 無症状感染者はおよそ千九百人、陽性者の三分の二程もいまして、ほぼ全員がワクチン未接種者、うちADE株陽性で無症状の人間は百五十八人でした。つまり無症状感染者のほとんどがワクチン未接種者で、かつ、その圧倒的多数は既存株に感染しているということになります」
 
 団長のアッフマン博士が眉を上げ、先を促した。
 
「勿論、詳しい研究が必要ですし、楽観に過ぎるかもしれませんが、こうした数字から導き出される推論は、ワクチン未接種者の間に限れば、既存株の方が圧倒的に優勢で、それに比べればADE株の感染力はかなり劣る。そして、ADE株に感染しても、ワクチン未接種者に対する毒性は低いという可能性です」
 コールター博士は続けた。
「当然ながら、陽性者は全員隔離されていて無症状でも治療薬が投与されています。濃厚接触者も全員隔離され、予防投与もされています」
 
「重症者と死者の状況はどうなっていますか?」
 アッフマン博士が割って入る。
「中等症・重症で治療を受けている患者は現在百八十二人です。うち十人は既存株ですが、どちらも重篤な状態まで悪化した患者はごく少数だそうです。
 これまでのところ死者は十八人、全員、高齢者でかつ心臓や呼吸器などに元から疾患を抱えた人や癌や糖尿病患者ばかりでした。そして、この十八人中十六人がADE株感染でかつワクチン接種者でした。
 陽性者と濃厚接触者には直ちに治療薬が投与されている為か、死者や重篤患者の割合は恐れていた程には多くないと評価できるかもしれません。
 ただし、こうした数字は封じ込め作戦が始まってから中国側が纏めたものでして、作戦開始以前のデータは含まれていません。以前のデータは北朝鮮政府が明らかにする気配がありません」
「そうですか…、ADE株感染だけについて纏めると現時点で感染者は千三百五十四人、うち死者は十六人、中等症・重症患者は百七十二人、無症状が百五十八人、残りは軽症で、多数がワクチン接種者ということですか…」
「そういう事になります」
 コールター博士が応えた。
「確かに感染力は比較的強くないとしても、ADE株被害は少ないとは言えませんね。油断は出来ません」
 アッフマン博士が皆を戒めた。
 
「検査はワクチン接種者を優先的にやっていると聞きましたが、その通りですか?」
 アッフマン博士が更に尋ねる。
「そうです。ワクチン接種者、総人口の20%足らずだそうですが、そうした接種者への抗原検査はもう一巡したそうです。ただし、抗原検査だけですと、偽陰性もありますし、潜伏期間で引っ掛からないケースもありますので、抗原検査の結果に拘わらず、ワクチン接種者へはPCR検査も同時進行で優先的に行われています」
 
「とすると、ADE株感染者は、まだ出てくる可能性がある訳ですね」
「そうです。濃厚接触者の中から、これから検査に引っ掛かる人間がいるでしょうし、新たに感染する者も出てくるでしょう。しかし、厳しい外出規制がありますので、予断は出来ませんが、ADE株の感染拡大が峠を越えるのはそれ程遠い将来ではないと期待して良いと思います。発動からまだ一週間程ですが、作戦は今のところ非常に上手く行っていると言えるではないでしょうか」
「ある程度予想されたことかも知れませんが、感染力がそれ程強いとは考え難いのは確かに救いです。治療薬が効くのも安心材料です。しかし、新規感染者がゼロになるのは多分少し先でしょうし、その状態が最低でも二週間、いや四週間は続くまで、着実に作業を続ける必要がありますね。
 何よりも、万が一、こんなものが漏れ出して世界に拡がったら、検査キットも治療薬も全く足りません。この国で展開されているような徹底的な封じ込め作戦を出来る国は限られます。
 皆さん、気を引き締めて、任務に当たってください」
 アッフマン博士が改めて檄を飛ばした。ほぼ全員、緊張した面持ちで頷いた。
 
「ところで、住民の様子はどうですか?騒ぎや混乱はありませんか?」
「驚く程協力的、と言いますか、従順です。食糧支援が行き届き始めた為か、一般市民はむしろ今はハッピーなんだという話さえあります」
「混乱が無いのは何よりですね。先進国ではこうは行かないでしょう」
 アッフマン博士が応じた。
「個人的な感想めいてきますが、私は、食糧支援がほとんど無かった普段の生活が余程厳しかったのだろうと同情します。ADE株への不安より、食糧支援の喜びの方が遥かに大きいようですから。この国で庶民が生きて行くのはそれ程大変だという証ではないかと、空恐ろしくなりますね。もっとも逆らうと良くて強制収容…」
 
 アッフマン博士が途中で制しながら言った。
「そう言った発言は、もう二度としないようにお願いします。我々の任務にはプラスになりません。皆さんも肝に銘じてください」
 独裁国家と貧困国の実情をよく知るアッフマン博士は直ちにコールター博士と団員に釘を刺す。
「それは大変失礼しました。以後、気を付けます」
 
 コールター博士が素直に応じた。コールターにもアッフマンの言う事は勿論理解できる。こうした発言が北朝鮮当局に筒抜けになる恐れもある。内容は誤りではないとは言え、コールターは自身の不明を恥じた。
 
 一行は、翌火曜日からの任務の段取りを入念に確認し始めた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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