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20XX年のゴッチャ その45

 Sタンパク
 
「ご存知のようにコロナウイルスの表面にはスパイク・タンパクというものがございます。略してSタンパクとも呼ばれますが、これがヒトの細胞の表面にあるACE2というタンパクと結合して細胞に侵入を果たします。しばしばSタンパクは鍵、ACE2は鍵穴のようなものと言われますが、その相性で感染力が決まります」
 WHOの発表を受け開催された緊急ブリーフィングで、ホワイト・ハウスの感染症対策を統括するボブ・カタオカ博士が説明を始めた。
 
「最初の武漢株以降出現し優勢になった変異株はこのSタンパクが変異し、ACE2との相性がより良くなったものばかりでございます。もう少し詳しく申し上げますと、Sタンパクは二つの部位、S1とS2で構成され、普段はその二つの部位が結合した状態で存在しておりますが、攻撃対象となる細胞が出すフーリンという酵素に新型コロナウイルスのSタンパクが出会うと、フーリンの働きで、Sタンパクは二つの部位に分かれ、S1部位が標的細胞と結合し、S2部位が細胞への侵入を司るのでございます。S2部位が別の酵素・TMPRSS2で更に切断されますと、細胞への侵入能力が更に高まると見られております。
 ワクチンが作り出す中和抗体は、こうしたSタンパクの働きを阻害するのです。ただし、ワクチンの効果はこれだけではございません。ウイルスに感染した細胞を壊すTセルなどの免疫細胞も活性化いたします。
 ワクチン接種後、時間の経過に伴い中和抗体の量は減ってまいりますが、Tセルの働きは長く保たれます。中和抗体が減っても重症化がある程度抑制できるのは、このTセル等の働きの御蔭と見られております」
 
「で、ADEはどうして起きるのだ?」
 マイク・ベン大統領が尋ねた。
「結論から申し上げますと、実はまだ良く分かっておりません。
 ADEを起こすことが分かっているウイルスとして、デングウイルスがございますが、
デングウイルスの場合は、中和抗体が十分に存在するうちは大丈夫ですが、これが減ってくるとADEを引き起こすという説もありますが、はっきりしておりません」
 
 デングウイルスはネッタイシマカやヒトスジシマカによって媒介され、デング熱もしくはデング出血熱と呼ばれる感染症を引き起こすウイルスである。熱帯・亜熱帯地域で多い。
 デングウイルスにはⅠ型からⅣ型まで四タイプがあり、例えばⅠ型に罹るとそれに対する免疫は一生保持されるが、他の型に罹ると重症化し、デング出血熱と呼ばれる症状を引き起こすことがある。その重症化のメカニズムにはADEが関わっていると言われている。
 
 カタオカ博士が続ける。
「留意して頂きたいのは、ワクチンが作り出す抗体は中和抗体ばかりではないということでございます。何の役に立たない抗体や却って悪さをする悪玉抗体も作り出すことがございます。
 例えば、これまで試験されたエイズのワクチン候補も抗体を作り出しますが、それが感染防止に役立たない抗体ばかりでございまして、エイズワクチンが実用化されないのはこれが大きな障害になっております。
 ADEに話を戻しますが、中和抗体が十分にあると大丈夫だが減って来るとADEが起きると言う説が本当だと仮定いたしますと、役に立たない抗体や悪玉抗体を利用してADEは感染力を増すが中和抗体が十分にあるうちはそれも阻害できる。しかし、減って来ると、他の抗体を悪用した感染と侵入が増えるという仮説を立てることも理論上は可能になるかもしれません。しかし、新型コロナウイルスのADE株は出現したばかりでございます。真相の解明はこれからの研究次第だろうと考えております」
 
「では、ブースターを打ち続ければ、ワクチンも効果がある可能性は?」
「現時点でそのように予想するのは時期尚早かと。ブースターが作り出すのは中和抗体ばかりではございませんので、慎重に見極める必要があると存じます」
 
「何度も確認することになるが、治療薬は効くのだな?」
「そのように考えております。治療薬が阻害するのはSタンパクの働きではございません。全く異なるメカニズムで、ウイルスの細胞内での複製を阻害いたしますので、ADEとはほぼ無関係と存じます。この点は心配しておりません」
「封じ込めは成功すると博士は考えるか?」
「何と申しましても治療薬の存在が大きいと考えております。それに中国流のゼロ・コロナ作戦も効果を発揮すると期待しております」
 
「ウイラード長官の見立ては?」
「同様に考えております」
 
「万が一の事態は?」
 ウイラード長官が応えた。
「悪意を持った人間が拡散しようとしない限り心配はご無用かと。これまでのところ、北朝鮮と中国という専制国家は実に真剣かつ真摯に対処しているようですので、そちらの恐れも極めて低いかと存じます」
 
「では、現時点で、対策をこれ以上強化する必要は無いと?」
「既定方針通り、治療薬等の積み増しと各地への事前配布を急ぐのが肝要と存じます。勿論、現地支援も出来る限り。そして、万が一、漏れ出した場合の国境管理強化は直ちに実施すべきかと存じます」
 カタオカ博士が応じた。ウイラード長官や同席したジュディー・アマール安全問題担当補佐官達も頷く。
 
「分かった。では、諸君、引き続き、情報収集と分析を続けてくれ給え」
 
 散会後、ベン大統領はアマール安全問題担当補佐官をオーバル・オフィスに呼び入れ、次のように指示した。
「万が一、ADE株が拡散した場合の対応策も取り纏めているか?」
「鋭意作業中でございます」
 アマール補佐官が応えた。
「可能性は低いようだが、君は大丈夫だと思うか?万が一の為にも、螺子を巻いて欲しい」
「承知致しました。大統領閣下。彼らの見立てを疑う理由はございませんが、その恐れをゼロと楽観するのは御明察の通り危険かも知れません。少し鞭を入れます」
 そう応えると補佐官は直ぐに部屋を後にした。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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