20XX年のゴッチャ その79


望遠カメラ


 
 
 翌日曜日朝、目覚めた菜々子がスマホをチェックすると大友から再び報告が来ていた。
 
 パリの著名肝臓外科医・パスカル教授が土曜日も別の病院、セーヌ南総合病院に入った事や定点観測に最適な場所を確保した事、それに掛かる費用の説明だった。
 
 隣でまだ寝息を立てている太田を起こさぬようにそっとベッドを出た菜々子は、何も身に着けていなかった身体にローブを纏い、朝の用を済ませたのに続いて、コップに半分くらいの水を飲んだ。そして、居間で返信を打ち始めた。
 
「お疲れ様。定点観測ポイントの件、了解しました。長くなるかもしれませんが、宜しくお願い致します」
 
 この週末、封じ込め作戦に特筆すべき動きは無く、東京サイドにもこれといった新しい情報は無い。
 
 大友達の張り込み取材の費用は結構嵩みそうだが、たとえ成果なくも、封じ込め作戦全体の取材費に紛れ込ませば処理可能だろうと菜々子は考えていた。
 
 太田が好む朝のコーヒーを淹れ、その他のメールやメッセージに目を通す。太田はまだ起きそうにない。出張の疲れもあるのだろう。菜々子は一足先にシャワーを浴びて、朝昼兼用の食事の支度をすることにした。
 
 
 
 現地時間の朝十一時前、パリ支局カメラマンのジャン・ルカ・アルヌーは二台のカメラのセットを終え、モニターに画像を映し出した。
 
 片方は標準的な望遠・広角レンズで、セーヌ南総合病院十二階のバルコニー全体を捉えている。動きがあればすぐに分かる。
 
 もう一台は超望遠レンズを備え、人が出てくれば、灯り次第だが、顔を確実に撮影できる。月のクレーターでさえもはっきり写せるレンズだ。
 
 一昔前なら、こうした機材を揃えるだけで莫大な費用が掛かったものだが、今のデジタル・カメラは実に高性能、しかも、かなり割安でレンタルできる。超望遠レンズはパリ郊外の年中無休のプロ用機材レンタル会社で前日にピック・アップしたものだ。
 
 二つ並んだモニターを眺めて大友が言った。
「ここまでやれば確実に映像は撮れるね。大外れだったら御笑い種だけどね」
 
「それは気にしてもしょうがないですよ。もうやるしかないっす」
 山瀬が応えた。
 
 そう、もう後戻りは出来ないのだ。やるしかない。しかし、画面は誰もいないバルコニーを映し出すだけだった。
 
 大友と山瀬は、セット・アップ済みの二つのカメラの操作の一番簡単な方法をアルヌーに教わった。彼だけしか撮影出来ないと拙い。いざとなれば綺麗なズーム・インまで撮る必要は無い。焦点を合わせて顔のアップさえ撮れれば良いのだ。
 
 習ってみれば、幸い、それ程難しいことではなかった。内臓のチップが自動で焦点を合わせてくれるので、録画ボタンを押して、そうなるように操作すれば良かった。標準・広角レンズの映像は固定したまま録画装置を回しっ放しにする。
 
 よく見ると東西にあるバルコニーは共に三つの区画に分かれていた。其々、それでもかなり広い。もしかすると一部はオフィス・スペースのバルコニーかも知れないが、そうだとすれば、日曜の今日はともかく、平日にならきっと職員の出入りがあるだろう…、大友達はそう考えていた。
 
 準備は万端整った。後は気長に待つだけだ。次は昼飯の手配だ。大友の出番であった。
 
 
 
 その日の日暮れ後、画面左、東側の三つのバルコニーの一番真ん中寄りの区画に誰かが出てきたのが見えた。
 
 アルヌーが超望遠カメラでアップに寄るとその人物は隅っこで煙草に火を点けた。病院は全面禁煙のはずだが、我慢できなくなったのだろう。
 
 煙草を吸っていたのは若い屈強そうなアジア系の男性で、薄明りの撮影だったが、その髪型や服装からは北朝鮮の人間らしからぬ様子は窺えなかった。平服姿であるところから察するに重病患者ではない。日曜の夜という時間帯も考慮すれば職員の隠れ煙草でもないと考えて誤りではなさそうだった。
 
「ますます臭うな…」
 
 大友達はそう思っていた。嫌いな煙草の匂いが鼻を突くように感じた。
 
 大友達には知る由もなかったが、その男はドナー候補の一人であった。肝臓の提供をしなかった方の男性で、そのまま、スタンバイを続けていたのだ。もう可能性はほとんど無くなっていたが、万が一、再移植が必要になれば、彼の出番がやってくるのであった。


***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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